[天皇]47 淳仁天皇。イエスマンだったけど

天皇シリーズ

淳仁天皇
758~764年

藤原仲麻呂が自分のイエスマンとなってくれる、大炊王を皇太子に立てていた

藤原仲麻呂から、孝謙天皇がせかされてという見方もあるが
公には、お母さんの光明皇太后の病状が悪くなったので介護に専念したいという理由で譲位
淳仁天皇の誕生です。

同時に、藤原仲麻呂は右大臣に任ぜられ、
藤原恵美押勝(えみのおしかつ)の名を与えられます。
(ややこしいので、今後も仲麻呂と表現しますね)
藤原氏って、不比等の4人の息子がいますが、それぞれの家をこう呼んでいます。
武智麻呂(むちまろ)- 南家
房前(ふささき)- 北家
宇合(うまかい)- 式家
麻呂(まろ)- 京家

最終的には北家だけが栄華をきわめる訳ですが
長男は武智麻呂ですから、最初は一番南家が力を持っていた。
仲麻呂は南家武智麻呂の息子です。

仲麻呂は中国(唐)が大好き
ことごとく色んなものを中国風に変えていきます。

実は神武天皇以降の、〇〇天皇という漢字二文字
漢風諡号(かんふうしごう)というんですが、文武天皇以外には付いていなかった。
じゃあ何と呼んでいたかというと、和風諡号
例えば神武天皇であれば「はつくにしらすすめらみこと」

この時期(天平宝字3年)に今までの全員分付けちゃいました。
淡海三船(おうみのみふね)という人です。
頑張りましたね

えらいことを考えました。
新羅(しらぎ)に攻め入ろう
なぜそんな事を考えたかというと、唐が不安定になったから
安禄山の乱というのが起きたんです。
唐の玄宗皇帝が楊貴妃という絶世の美女を熱愛したことで唐は悪い方向に向かい
その隙を突かれた。

よし、この隙に、朝鮮半島の新羅を征服しちゃえ
とは言え、唐は大国
実際に新羅に侵攻しちゃっていたら、またまた日本は滅亡の危機にさらされていたと思います。
このあとの事件によって、それがなくなっちゃったので助かりました。

天平宝字4年(七六)正月、孝謙太上天皇と淳仁天皇の臨席のもと、藤原仲麻呂は従一位を授けられ、さらに孝謙みずからの勅により大師(太政大臣)に任ぜられた

天平宝字4年にとうとう光明皇太后が亡くなってしまいます。
ここから、パワーバランスが崩れ出します。

藤原仲麻呂にとって一番の後ろ楯は光明皇太后
光明皇太后は藤原不比等の娘ですから。

孝謙太政天皇もその娘ですから、藤原氏と言えなくもありませんが
藤原氏意識より、天皇家の意識の方が強かった

自身が健康を害したとき
道鏡という僧が治療に当たった。

昔の日本には医者という専門職はいません
人の病気を直すのは、唐の書物を読める人
外国人か僧になります。

道鏡の丁寧な看病に心動かされ
それが次第に愛に変わっていった。

このあと、日本史上あり得ない大事件に発展していくのですが
孝謙太政天皇を責められましょうか
子供を作っちゃうとややこしくなるので、結婚することも許されない

人を愛すること
それは万人に認められた権利じゃなかろうか

もともと、大仏の開眼法要も執り行い、仏教大好き。
ますます、仏教に傾倒し、とうとう出家して尼さんになっちゃいました。
聖武天皇の場合は、譲位したあと出家すると政治には一切口出ししませんでした。

孝謙太政天皇の場合はきっちり引退ではなく、淳仁天皇の補佐もちょっとはやりましょうと。
ところが、淳仁天皇がいらんこと言っちゃった。

良からぬ噂が立っておりますぞ
お控えなされた方が。

カチン。

孝謙太政天皇がみんなを集めて仕返しの宣告
国政については、今の帝は「常の祭祀と小事」だけを行なえ。
「国家の大事と賞罰の二柄」は朕が行なう

焦ったのは、藤原仲麻呂
後ろ楯の光明皇后が亡くなった上に
自分にイエスマンだった淳仁天皇が危ない

何か手を打たねば
その日のために、準備

ところがこれが孝謙太政天皇に漏れちゃいます。
孝謙太政天皇が先に動きました。

仲麻呂の鈴印を奪います。
どういうものかというと
各地に散らばる仲間に挙兵のために連絡しようと思うと鈴印がいる
今で言うと郵便に対する切手、メールに対するメールアドレスみたいなもん

そう来たか

準備不十分なまま挙兵せざるを得ませんでしたが、勝負あり
悲惨な最期を遂げます。
藤原仲麻呂の変、と言います。
藤原南家はこれで勢い半減です。

正一位で太政大臣という最高権力者だったのに。

そして、淳仁天皇は廃位させられ、淡路に島流し。
引退したはずの前天皇が、現天皇を辞めさせて、島流しにしちゃう。
すごいことしますね

次の天皇は?

はい、私

ここから超独裁政権へと変貌していくのです。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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