[首相]8 山本権兵衛。ろうそくの灯の中のスタート

明治シリーズ兼歴代首相シリーズでやって来ましたが
大正時代に入ってしまいます。

歴代首相シリーズ1本にして、もうちょっとだけ行きましょうか

山本権兵衛
薩摩出身 海軍出身

♪ゴンベさんの赤ちゃんが風邪ひいた~

鹿児島市鍛冶屋町の出身

「イギリス艦、鹿児島湾に現る」という名の鹿児島にある銅像
薩英戦争の始まりです。
左から、大山巌、西郷従道、一番後ろからついていくおチビちゃんが山本権兵衛です。

大政奉還になると、薩摩藩は独自に軍隊を編成
15歳の権兵衛は、入隊資格が18歳だったため、
はい。18歳です。

西郷隆盛に紹介状を書いてもらって、勝海舟と面会
海軍操練所に入れてもらう。

それ以来、ずっと海軍の人

樺山資紀(かばやますけのり)海軍次官に随行して明治20年に1年にわたって欧米を視察
大いに見識を深める

樺山が海軍大臣になると、官房主事に大抜擢される
次に西郷従道が海軍大臣になると、どんどん任せて改革をやらせる
後ろくっついて行っていて良かったね

海軍の人材の人員整理を100人近くも実施したときは
さすがの西郷従道海軍大臣も、ちょっとやりすぎじゃない?

戦争になればまた召集すればよろしい

分かった。

西郷従道海軍大臣の後任でいよいよ、海軍大臣
日露戦争で東郷平八郎を大抜擢
お陰で大勝利

それ以降ずっと海軍大臣

首相へ
第一次護憲運動で桂太郎内閣が倒れる

後任は元老西園寺公望の判断に委ねられる

政党内閣はまだ時期尚早
と判断

薩派と海軍の支持を得て、組閣
とはいえ、この時期、長州と薩摩の差は開く一方
長州は長州閥と呼ばれるのに
薩摩はそこまで行かないねと、「薩派」と呼ばれている。

やっぱり最大政党、政友会の支持を取り付けねば。
西園寺公望は、自分が選んだ以上責任がある
実は自分が政友会の総裁
実際に政友会を切り盛りしている原敬(はらたかし)を呼ぶ

何とか、協力してやってもらえんか

どうしよっかなぁ

海軍大臣、陸軍大臣、外務大臣以外、全部の大臣を政友会から出してもらえるなら良いよ

何とも強気の条件

大蔵大臣の高橋是清(これきよ)なんて、直前に政友会に入党してから大臣になった。

海軍の時は輝いていたのですが
なかなか、首相になってしまうとね

大きな一歩は、陸海大臣の現役武官制廃止
それまでは、陸海大臣になるためには、現役で陸軍や海軍に所属していなければならない。

これを利用して、軍側が、首相を気に入らなければ
大臣を出さないという抵抗が出来ることを意味していた。
大臣が揃わないと、内閣が成り立たず、首相は組閣前に断念せざるを得なかった。

面白いですね
一番海軍で幅を効かせていた人が、現役武官制廃止を通しちゃった。

シーメンス事件
シーメンス電機の東京支店の社員が恐喝されるという事件が起きる

ほれほれ、ばらされなくなかったら、金をよこせ

そのネタはというと
海軍高官への贈賄

大問題に発展します。
ほぼ、ロッキード事件

この事件が元で、海軍出身の首相、山本権兵衛は退陣せざるを得なくなります。

第二次山本権兵衛内閣
それから9年が経過した、大正12年、8月24日
加藤友三郎首相が、現職のまま病死
えらいこっちゃ

空白は許されないから、すぐにあとを探さなきゃ
大正天皇から大命降下が下される
山本権兵衛君、後を頼む

今度こそ、仕事がバリバリ出来る内閣を作るぞ!

そんな組閣のまっ只中
9月1日をむかえます。

大正12年9月1日と言えば

関東大震災です

なんと不運な。

前倒しで、明日内閣をスタートさせよ

わかりましたっ

電気が復旧していない中で
ろうそくの灯の中で、その日の夜に、大正天皇から新任式を受ける

異常な船出
右往左往しちゃうんだけど
一番良かったのは、後藤新平を内務大臣に抜擢したこと。

30億円という、当時の貨幣価値からして、気でも狂ったか、という予算を計画し
帝都復興院を創設
後藤の大風呂敷と呼ばれる。

大蔵省との交渉で、7億円まで削られた。

さらに、伊東巳代治らが、復興審議会で、後藤新平を一斉攻撃

政友会も、さらに2割削減を要求
最終的に4億7000万になった。

震災前の状態への復旧ではない
新しい東京へ向けた復興だ

焦土を全て国が買い上げ、整理した上で、売却・貸付をする
全部買い上げ案は予算的に不可能になってしまったが

それでも、後の自動車時代を見越した、50m幅の道路や数多くの公園などを
着実に実行していった。

幹線道路を放射線状に敷く。さらにそれを、8つの環状道路で結ぶ。

「環七通り」「環八通り」はもちろんのこと、
「明治通り」「山手通り」「内堀通り」「日比谷通り」「晴海通り」「外堀通り」「不忍通り」なども、
この8つの環状道路計画の断片。

虎ノ門事件
何とかかんとか持ちこたえていた、山本権兵衛内閣だったが
虎ノ門事件が起きる

摂政の宮という、後の昭和天皇を
虎ノ門で無政府主義者の難波大助が虎ノ門で至近距離から狙撃
幸い、玉は反れて車に当たっただけだった。

それでも復興途中の日本に与えた衝撃は大きく
1年ちょっとで、退陣となった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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