[関東の戦国]2 享徳の乱、長享の乱

[関東の戦国]1 戦国時代のベース
の続きです。

鎌倉公方、関東管領の両方がいなくなってしまったところでした
数年その状態が続くのですが
所領のトラブルは日常的に起きていたので
いつまでもこのままじゃまずいよね

関東管領だった上杉憲実に復活要請
一旦は復活したんだけど、結城合戦なる騒動があり
ほとほと嫌気がさし、もう何が何でも絶対嫌
自分だけじゃなく、息子たちも巻き込まれないよう出家させた

鎌倉公方の方もごちゃごちゃあって決まらず
結局はあれほど嫌っていた持氏の息子、成氏(しげうじ)を据えた

享徳の乱
1455~1483年
鎌倉公方、5代成氏が、仕返しに関東管領、山内上杉氏の上杉憲忠を暗殺します。
室町幕府は、山内上杉氏、そして、上杉の別の一族扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を支援して泥沼の戦い
これ以降が戦国時代と呼ばれます。
応仁の乱が1467年だから
京都より関東の方が10年以上早いんです。

急に扇谷上杉氏というのが出てきましたね
関東管領でもないのに関東でとっても力をつけてきた。
家臣のある人が大活躍したからなんですが
さあ、誰でしょう。

はい!太田道灌(おおたどうかん)

きれいに勝ち負けがつくことなく、関東はこの3勢力が均衡します。
足利成氏(しげうじ)は、茨城県の方に移り、古河公方と名前を変えます。
武蔵国は、北半分が山内上杉、南半分が扇谷上杉

でも、これじゃ終わらないんですね

長享の乱
1486年 あろうことか、太田道灌がその主君である上杉定正に殺されます。
誰のお陰でここまで

この気を逃すまいと、山内上杉が攻め入ってきて、長享の乱
1487~1505年

両者ボロボロ

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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