[首相]22-3 石原莞爾とは、何だったのか

首相シリーズ、林銑十郎まで終わり、次は近衛文麿
日中戦争に突入していきますが
その前に、重要なキーパーソン、石原莞爾(いしわらかんじ)について書きたいと思います。

石原莞爾(いしわらかんじ)
極端に頭が良い。いっぱい敵を作るタイプ
「昭和陸軍には上官が部下に持ちたくない将校が二人いた。石原と辻政信である」
上司だろうが関係無い。間違っていると思うと完璧に論破する

陸軍大学校では最優秀の成績だった
最優秀の者は天皇の前で、戦略論を披歴する機会が与えられるのだが
何を言い出すか分からないので、無理矢理次点だというふうにすり替えられてしまった。

当然、陸軍でトントン拍子に出世していくのだけれど
ある程度まで行くと敵が思いきりいるのでそれ以上が難しくなってくる
もちろん強烈なファンもいるのだけれど

そんな石原莞爾の事を病的なまでに嫌ったのが東條英機
年齢的には東條の方が4歳上

昭和12(1937)年9月、石原は参謀本部作戦部長の職を解かれ、関東軍参謀副長に転じた
日本全体の作戦部長から、関東軍の参謀長の下へ
どう考えても左遷
しかも、関東軍の参謀長は東條

隣の部屋なのだが滅多に顔を合わせない
部下が作成した文書を石原のところに持っていくと
鉛筆で丁寧に書き加え、推敲していく。
その後、東條のところに持っていくと
顔を真っ赤にして、消しゴムで石原が加えた鉛筆書きを全て消す。

東京裁判
石原莞爾は東京裁判に戦犯ではなく、証人として呼ばれている。
発言を許されて

「満州事変の中心は自分である。満州建国にしても自分であるのに、なぜ自分を戦犯として逮捕しないのか不思議である」

検事からは、証人として呼んでいるのであって、個人的意見は述べなくて良い、と制された。

石原が訴追されなかったのは、日中戦争に反対、
太平洋戦争にも反対していたことが明らかであり、
東條政権と徹底して対決した点が挙げられる。

あなたは、東條英機と対立していたのではないか、という問いには

対立したということはない。
東條には思想も意見もない。私は若干の意見も持っていた。
意見のない者との間に対立があるわけはない。

日本の戦犯を見るに国際裁判に付する値打ちがあるものはただ一人もいない。
まるで、犬のようだ
今や戦争に勝って大国となったアメリカが犬を相手にしたとあっては物笑いの種である
裁判をやめてアメリカに帰ってはどうか

石原は自らが関わった満州国が、日本のかいらいになっていくのが許せなかった。
「世界最終戦論」というのが彼の思想だった。
欧米の長たるアメリカとアジアの長たる日本が最終戦としての戦争を行い
その後に世界に恒久の平和が訪れるというもの

彼のイメージからは、日中戦争も太平洋戦争も全く意味のない戦争だった。

ただ、太平洋戦争が終わり、石原も反省している
日本がアジアの長であるというのは、思い上がりだったと。

東條の戦略は戦略ではなく、精神論一辺倒だった。
戦争は負けたと思ったときが負けであり、そう思わなければ負けはない
いかに戦力差があろうとも、日本国民が本当に本気を出せば逆転勝利が訪れるのだと

石原から見て、全く聞くに値しない考えなのだけど
東條は人事の全権を握り、その考えに異を唱える者は徹底して左遷していく
そして、日本全体を根拠のない精神論一色に変えていく。

勿論戦争自体が間違いなのだから
石原の戦争論が正しいというつもりはない
仮に、石原の主導のもとで戦争を緻密な理論のもとで戦って
勝ったとすると、日本はさらに間違った方向に向かったのかも知れない。

ただ、我々が知るべきなのは、
違う考えを声高に唱えるものもいるにはいたということ

歴史から学ぶべきことがあるとすると
それがどう潰されていったのかという過程かという気がする。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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