[首相]26 米内光政。日独伊三国同盟に反対。帝国海軍の葬儀委員長。

米内光政(よないみつまさ)

阿倍信行内閣が4ヶ月で倒れたあと、大命が下ったのが米内光政
昭和天皇のかなり強い意思だった。

米内光政は海軍出身
首相ともなると、ほとんどの人が、超キレ者だった人だけど
米内は、それほどでもない。

兵学校ではグズ政とあだ名されていたし
海軍に入ってからも、派手な功はあげていない

小さいことからコツコツと、ってタイプ

みんなが嫌がる仕事も黙々とこなし
気がつくと、連合艦隊司令長官になっていた。

翌年の昭和12(1937)年、林銑十郎内閣で海軍大臣に
そのあとの近衛文麿内閣でも、海軍大臣になる
さらに平沼騏一郎内閣でも。

山本五十六・井上成美と共に、「条約反対三羽ガラス」と言われ
日独伊三国同盟に徹底的に反対
陸軍と真っ向からぶつかる

阿倍信行内閣では海軍大臣を退くが
昭和天皇としては、米内なら陸軍を押さえられるかも、と考えた。
昭和15(1940)年1月、米内光政内閣発足。

日中戦争は、汪兆銘政権ができたものの、全面講和には至らなかった。

近衛文麿は、一国一党を目指し、新体制運動を展開

米内内閣ではどうしても、日独伊三国同盟は結べないと考えた陸軍は
米内を引き降ろしにかかる

結局、阿倍信行内閣よりは長いが、1年はもたず
7ヶ月で総辞職した

再び
ただ、米内はそれだけでは終わらなかった。

開戦後の、昭和19(1944)年、米内に再び大命が下る
陸軍の小磯国昭との二人に連立で内閣を組織せよと。

どっちが首相する?

ジャンケンで決めるか
と言ったかどうかは分かりませんが
副総理格の海軍大臣となる

次の鈴木貫太郎内閣でも海軍大臣に。

ひたすら、太平洋戦争終結へ向けて動き回る
ポツダム宣言が出されると、受諾すべしと
戦争継続を主張する者と真っ向対立

結局天皇に判断が委ねられ、受諾が決定。

強行派たちをどう押さえるか

天皇は直接話をしようと行ったが
米内は、それでは私のいる意味がありませんと断り
苦労したが説明して回った。

戦後の東久邇宮稔彦内閣や、幣原喜重郎内閣でも
海軍大臣を留任

ひとつ重要な仕事が残っていたから。

山本五十六の葬儀では葬儀委員長を務めた米内だったが
今度は海軍の葬儀委員長

ずっと海軍で
海軍大臣を7度も務めた。
愛着なんてもんじゃない。
その海軍を終わらせる

粛々と、規律正しく

陸軍は派手に解散式を行ったが
そういうのもなく、ただひっそりと。

天皇からは労をねぎらわれ
いただいた硯箱

米内光政は、東京裁判で罪に問われることはなかった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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