[天皇]86 後堀河天皇。よく頑張りました。

後堀河天皇
1221~1232年

後鳥羽上皇と順徳上皇が承久の乱を起こして敗北した。
前代未聞、天地がひっくり返るほどのこと。

今まで何だかんだ言って、どんな権力者が現れようとも
戦を起こすときは、天皇ないしは上皇に「〇〇を討て」との勅命を出させて
それを根拠に、官軍として戦ってきた。

今回ばかりは、討て、の相手が命令に刃向かった。
天皇に刃向かう事は神に刃向かう事
そんなこと出来るわけないと二の足を踏むのを
北条政子と貴族出身の参謀大江広元が説得して回って
そして勝った

ああ、勝っちゃったよ、どうするよ

朝廷を壊滅させ、後鳥羽上皇と順徳上皇を配流にする
幼い天皇はなったばかりだけど廃帝

今まで次の天皇をどうするか、ってことは京都の公家内部で決めてきたけど
それをぶっ潰しちゃった訳なので
幕府(執権)側が決めなきゃいけない

朝廷を潰した訳だから
これからは私が天皇なり、と宣言する
日本史史上、数少ないチャンスだったけど
それを絶対しないのが、日本の極めて特殊なところ

最初に考えたのは、土御門(つちみかど)天皇の系統
土御門は積極的に乱に関わっていない
土御門だけは配流にしなくていいんじゃないの?
そうすれば、土御門の息子を天皇として立てられる。

ところがこのプランに思わぬ抵抗者が現れた。
土御門本人

私も配流にしておくれ。何がなんでもそうしておくれ。

参った。
配流にした天皇の息子を天皇としてたてるのはちょっと厳しくなる

大江広元がひらめいた。
あの人がいるじゃないか。

守貞(もりさだ)親王

高倉天皇の息子で言うと
安徳、守貞、後鳥羽の順

安徳天皇を廃して、天皇を入れ替えようと考えると
当然、守貞になる
ところが、その時、平家も先を読んで、安徳と共に、守貞を連れ去っていた。

仕方ないなあ、と後鳥羽
後鳥羽はあくまで繋ぎで、京都に守貞が戻って来れれば
すぐにでも、守貞に譲位するんだぞ

後鳥羽もそれが分かっているから
何としても、守貞系統に天皇の座を渡すまいと
すぐ、自分の息子の土御門に譲位し、院政を開始

戻って来れた守貞親王は
してやられた!

諦めた守貞親王は出家
その後は忘れ去られた存在だった。

守貞自身は出家しちゃっているので、天皇としては立てられないけど
その息子がいる

ということで、後堀河天皇となりました。

ただ、後堀河天皇はまだ10歳
まあ、幼帝って今までもありました。
そういうときは大体、前天皇である父親が院政をしいた。

院政ならば、出家していても大丈夫と
守貞親王に太政天皇「後高倉院」の尊号を与え
院政よろしくお願いしまーす

あれ、変ですね、守貞親王は天皇になったことないのに何でまた院なの?
そんなの先例ないよね
という声には
聞こえないふり作戦

当の後堀河天皇は元々病弱で
本人も長生きは出来ないと分かっている
何とかして男子をもうけ、一刻も早く譲位したい。

補佐と言えば、院と共に、摂政関白です。
廃帝になった仲恭天皇の摂政だった九条道家を更迭し、近衛家実を摂政とした。

家実とはうまくやれていた。

そんな時、たった2年で、守貞(後高倉院)が亡くなっちゃった。
えらいこっちゃ。家実頑張らねば。

元服した後堀河は奥さんをもらったんだけど
いまいちの家柄
家柄が良くない奥さんから出来た息子は、天皇になれないケースが多々あるので

ごめん、やっぱり奥さん交替
関白の家実の娘、長子、9歳
家実とは良好な関係だしね。

ところが、後堀河のお母さんが口出しした。

あんた何考えてんの
早いこと跡継ぎ作らないとダメでしょ
あなたも分かっているはずでしょ
9歳は全然無理
はい、再度交替

家実を更迭
失脚したはずの、九条道家が復活して関白に。

なぜかというと、道家には21歳になる娘がいたから。

娘が9歳だったからという理由で更迭された家実も可哀想ですが。

作戦成功。

うまい具合に、男の子誕生。

2歳になるのを待って、すぐ譲位です。

後堀河の院政ということになりますが
本人の予感通り、たった2年で亡くなり、院政終了です。
後堀河23歳でした。
良く頑張りました。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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