[天皇]100-2 後小松天皇。最も安定期に実権を握る

[天皇]100 後小松天皇。心を殺してまで
の続きです

後小松天皇

前回は即位までの幼少期でしたのでそのあと。
義満は、その前の後円融との関係がうまく行かなかったため後小松を幼帝でありながら即位させた
ということなので、後小松に対しては大事に扱っている
ただ、実権は相変わらず義満が持っていた
南朝もいるし、北朝の中でも崇光院派と後光厳院派が対立していたので
後光厳院派を強く後押しして、安定を図る必要があったと思われる

そんな義満が急逝
変わった義持が天皇を尊重する政策に転換したので
後小松の、のびのび期がやって来る

南北朝統一の時の約束で以降の天皇は北朝系南朝系順番にする
ところが、そうそうに息子の称光天皇に譲位して約束を反故にしてしまった
北朝内の崇光院派にも次の天皇を取られないため先制パンチ。

上皇として実権を握ります
義持とは良い関係が最後まで続き、家族ぐるみのお付き合い
将軍が義教になると、義持との関係ほどは密月ではなく、微妙な関係にはなりますが
いがみ合うってところまでは行かない。
結局、室町時代の最も安定期に実権を握り続けた事になります
約束を反故にされた南朝は怒り、武力蜂起し
その制圧で大変なことになりますが
それでも、その前やその後に比べれば、安定期ということです

出家したく、日程まで決めていたが
義持に待ったをかけられた。
出家がいけないというのではなく、義持は禅宗かぶれなので
出家するなら禅宗じゃないとダメでしょうと。
その後、称光天皇の弟、小川宮が亡くなったりしてバタバタして
話がうやむやになってしまった。

再度、出家しようとした時は、今度は義教に慰留された

55歳にしてようやく出家
出家を強行したことで、微妙な義教との関係は
とっても微妙な義教との関係になってしまった

長らく実権を握り続けた後小松も
永享5年に永眠
最後まで、義教と打ち解ける事はなかった

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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