日本語には、昔、「た。」も「である」も無かった

日本語には、昔、主語も文も無かった
の続きです

「た。」は過去形か
面白い問いかけですね
そんなの過去形に決まってます
学校で習いました

ただ、言われてみると微妙

ピッチャー振りかぶって第一球を投げました
打った

うーん、過去形?
現在形と言った方が良いような

同じような場面を英語で実況放送する場合は
現在形が使われている

これも昔は無くて、翻訳の中で作られたものだから
明確な形になっていない

江戸時代、蘭学者の中で、オランダ語を訳すとき
過去形や現在完了形を「~た」と訳したことに始まる
ただ、この時でも、「~た」を使うことは少数派
日本語の過去形としては「し」「けり」「たり」を使うのが一般的

「~た」を過去形として一般的になったのは、明治30年代、二葉亭四迷などから始まった
小説文の影響かと思われる

「た」はもとは助動詞「たり」の連体形
(たるなんじゃないかという気もするが)
後ろに何かが続くはずなので、「た」で切れる文はほとんど使われなかった

二葉亭四迷自身も使っておきながら反省していて
どうにもぎくしゃくしていて出来栄えが悪い、と言っている

今、口語ではどうかというと「た」で終わる文は使われない
「たね」「たよ」とか
そう言われればそうです
「た」で終わるってぶっきらぼうで、喧嘩売ってんのかってなります
「分かった」とか言うのは、もういいからこれ以上言うな、って時です

本によると、現在形の「食べる」のような「ル形」と言われるものも
翻訳で作られたらしいのですが
ここは、私自身、うまく理解できなかったので省略

である
「である」も以前の日本語には無くて、翻訳で作られたもの

夏目漱石の「吾輩は猫である」は
それまでの日本語にはない「~は」と「~である」を組み合わせている。
ね、変な日本語でしょ、笑ってやってください、という趣旨

日本語は「空は青い」とか「山は富士」のように
形容詞や名詞もそのままの形で述語になりえる
英語ではあくまでも述語は動詞
形容詞や名詞を述語で表現しようとすればbe動詞を使わなきゃならない
isとかです。懐かしいなあ、学生の時にbe動詞って言ってたなあ

日本語とは順番が違うので日本語の場合はisに当たるものを後ろに持っていって
「である」という言葉を作り出した

翻訳にのみ特有の言葉だったんだけど
明治になって、小学校の国語教科書に「デアリマス」が登場する
「あります」は江戸の遊里に特有な言葉だったんだけど
明治になって、教科書を作るとなったとき、方言を避け「標準語」を作ろうとして
「あります」と「である」から「デアリマス」の表現を使うようになった

教科書に載れば広がってはいきますが
やっぱり違和感ありありなので
吾輩は猫である、は当時今以上にヘンテコ文としてとらえられたんでしょう
それが有名になって、であるは逆に堅苦しい表現としては一般的な表現となっていったのかもしれない

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

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