ことば日本史、室町時代から
高
年貢や稲の収穫の見積もりの多少を「高」と呼んだ。
鎌倉時代末期までの荘園制の時代には、
田畑や屋敷の広さや等級に応じて年貢が徴収されていたが、
この体制が崩れてくると、金銭によって納めることが普通になった。
そうなると土地は、納める銭貨の「高」で示されるようになり、
「何貫文の土地」というふうにいわれるようになる。
これを「貫高制」という。
戦国大名たちは、この「貫高」によって土地の価値を把握し、
征服地を家臣団に給付するときも、これを知行高とした。
これは、実際に納められた額によるから
本当にその土地にどれだけの生産力があるか、や
どれだけ生産できたか、
ではなく領主と領民の力関係で変わってくる
強い領主のもとでは絞りとられるので、あたかも多く生産できたかの如くになる
全国まちまちになるので、「基準」とは言いがたかった
そこで豊臣秀吉は、「太閤検地」を行って、屋敷や耕地の面積をはかり、
生産高と面積とをかけて「石高」を算出した。
これによって年貢高から見積もり生産高へと、
土地評価の基準が変わったわけである。
これを「石高制」といい、
以降は江戸時代まで、家臣の知行地も石高で表示されるようになった。
石高は、大名や家臣の家格や軍役負担の基準であり、
この制度は幕藩体制の根幹となるものだった。
こうしたところから、相手の「高」を計算し、
みくびることが「高をくくる」とか「高が知れる」ということになる。