上杉鷹山。上にたつ人はこうでなきゃ

「感動する!日本史」から

上杉鷹山(ようざん)は
日向高鍋藩の秋月家の次男坊として産まれる。

9歳の時、上杉家の養子になります。

上杉家
あの上杉謙信の上杉家なので、名門中の名門です
ただ、関が原後の後処理で
会津120万石から米沢30万石に
さらに、家督相続の混乱で、15万石まで減封させられてしまいます。
最初からすると8分の1になります。

そうなると、その背丈に合わせて、にすべきところ
何せ名門なのでプライドが邪魔します。
武士のみんなは、「上杉家の」の冠が嬉しいので
一切離れようとしません

結果、人口に占める武士の割合が異常なほどになっており
収入が小さいのに人件費が膨大です。

その場しのぎの借金で回しますので、借金地獄
藩主、重定は、お手上げ、ギブアップ。
そんな例はないんですが、藩を自ら返上して
幕府に「後はよろしく」と真剣に考えていました。

上杉鷹山
そんな中で鷹山は、儒学者、細井平洲(へいしゅう)と出会います。
平洲は、まず鷹山に、治者の心得を話します。
誠と慈悲と慎みの心

今使っている「経済」という言葉は、平洲の説いた「経世済民」から来ています。
世の中をよく治め、人々を苦しみから救う。

「治者は民の父母である」とも言いました。
親ならば子供がお腹をすかせていると、自分は我慢して子供に与えるし
勉強したいけど学費がないとなれば、生活費を削って学費を送ろうとする。

無茶苦茶分かりやすいですね。
親を経験したことある人なら
理屈を言わなくても、その一言で感覚としてすごく良く分かる。

藩主に
鷹山17歳の時、家督を継ぐことになります。

受け継ぎて、国の司の身となれば、忘るまじきは民の父母

それまで、江戸の米沢藩邸で暮らしておりましたが、米沢へ向かいます。

話には聞いていたけれども
その惨状を目の当たりにし、言葉を失います。

でもその民達は自分の子供達な訳です。

何をしたか
親の気持ちになってすぐに分かることをすぐに始めました。

自分の給料を1/8ほどに減らす。
日常の食事は一汁一菜
着るものは綿衣、50人いた奥女中を9人に減らす。

それで財政に与える影響は微々たるものかもしれません。
でも、そういうことじゃない。
子供達が飢えているのに、自分一人が贅沢出来る訳がない
そういう、親の気持ちの問題です。
そこには、そういう姿を見せておいて、みたいな計算の入り込む余地がない。

本格的に
借金地獄から脱却するには、根本原因の解決に取り組む必要があります。

根本原因は、武士が多すぎるということでした。

数々の名指導者も
こういうときは、断腸の思いでリストラを断行した。

でも
鷹山は、その方法を取らなかった。

なぜ、武士が多すぎるとダメなのか。
武士は生産活動をしないからですね。

一緒に農業しようよ。

その手があったか
目から鱗です。

でも、上杉家という名門で、プライドが高すぎたからこうなっちゃったわけで
当然
「聞いてないよ」です。

あなただけにって言ってないよ。
みんなで一緒にやろうよ
もちろん、私も一緒

汗水たらして仕事するって
絶対楽しいことなんだ

親が子供に言うように。

鷹山じゃなきゃ言うこと聞かなかったでしょうね
おそらく本当に、お父さんから言われている気になったんだと思う。

我も我もと輪が広がっていって
荒れ地を新たに開墾して、田畑にしたり
橋を補修したりもした。

そして、その輪は武士の奥さん達にも広がり
農業を手伝ったり
織物を織ったり。

士農工商?
何でしたっけ、それ

従来からの農民や職人に対しては
もっと新たな作物も提案したり
漆や絹織物などの特産品も産まれていった。

わしにもなんかやれることはないじゃろうか

お年寄りにもその輪が広がっていきました。

こんなのどう?
みんなで考えたのが
水の多い米沢の地を活かし
体力はそれほど要らないけど
丁寧である必要がある、鯉の養殖。
綺麗な錦鯉がバンバン売れるようになります。

みんなが家族
みんなのために
自分が役に立てることを探す。

そして少しずつ、
時間をかけてじっくりと進んでいきます。

棒杭の商
30年ほどが経って、いよいよ象徴的な商いが始まります。
棒杭の商(ぼうくいのあきない)
城下の外れ
棒がいくつも立っていて
農作物やら、火打ち石やらカッパやら
生活必需品とかをぶら下げておく。

値段札と、ざるも。
商品もそうだけど、お金がざるに入れられてそこにある訳です。
以前のすさんだ米沢だったら考えられなかった。

誰も商品やお金を持ち去ることもないし
ざるにはいつもピッタリのお金が入れられている。

豊かさってこういうことなんだと思う。

極端な貧しさは回避しなきゃいけないけど
ある程度見えてきたら
後はもう、気持ちの豊かさでいい。

再会
鷹山が米沢に来たので、細井平洲先生とは会えなくなってしまった。
平洲先生も高齢になってきたので
今会いに行かないと一生会えないかも知れない。

平洲先生が米沢に訪ねていく。

いてもたってもいられなくなり
米沢藩の入り口のところまで藩主自ら出迎えに行く。

分かるなあ
この時の気持ち

一番大切な人に
一番大切にしているものを
一刻も早く見せたい。

おそらく、先生も
すぐに見ることが出来たでしょう。

米沢藩のみんな、すなわち子供達の笑顔。

自分の教えたことが、伝わったのか
何にも確認しなくたって
すぐに分かったでしょう。

言葉
なせばなる なさねばならぬ 何事も
ならぬは人の なさぬなりけり

上杉鷹山の言葉だって知らずに、ずっと使っていた。
そうだよなぁ
って思いながら
説教的に使われることもあるから
煙たい時もあった
お前がやれって突き放している印象もあった。

違うんだね

やらなきゃ成果は上がらないって
言葉通りだとそうだけど

そんなことより
気持ちの問題なんじゃないかって思う。

良いじゃないやろうよ

一緒にね

完済
文政5年(1822年)、72歳でその生涯を閉じました。
米沢藩が借財を完済したのは、その翌年のことです

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