[昭和歌謡]67 五番街のマリーへ

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

五番街のマリーへ
ペトロ&カプリシャス
作詞 阿久悠 作曲 都倉俊一
1973年

♪五番街へ行ったならば
マリーの家へ行き
どんなくらししているのか
見て来てほしい
五番街は古い町で
昔からの人が
きっと住んでいると思う
たずねてほしい
マリーという娘と
遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた
それだけが気がかり
五番街でうわさをきいて
もしも嫁に行って
今がとてもしあわせなら
寄らずにほしい

出ました。ゴールデンコンビ。阿久悠と都倉俊一
さすがです。

ペトロ&カプリシャスは良かったですね
こんな超一流のボーカルをゲット出来たんですから。

その前の「別れの朝」のボーカルが良すぎたので
それを超えられないでしょうと思ってました。

阿久悠さんも、なかにし礼さんの、別れの朝はかなり意識したそうです。
演歌じゃなくて日本人の心を打つドラマ性のある歌
よし、続けって

大型客船で、「日本の歌謡曲を考える」的イベントをやっていて
名だたる歌謡界の有名な人が色々参加
戸倉さんと、船上で即興で作ったそうです。
さすがですね。
ジョニィへの伝言はもう出来ていたのかなあ
あったとしたら続編ではありますが。

ジョニィへの伝言とのセットですよね
ジョニィとマリーはそれぞれのお相手なんでしょうか

ジョニィへの伝言から五番街マリーへまで何があったのか
勝手な想像をしてみました。

ジョニィとマリー
ジョニィはマリーの踊る芝居小屋によく足を運んだ
マリーも次第に意識するようになり
言葉を交わすようになった。

初めてジョニィの部屋を訪れたとき

へえ
絵描きさんだったんだ。

絵の事は良く分からないけど
素人目に、色使いがきれいだなと思った。

特に深い青に見入った。
心のような青だった。

街中で、似た青の服を手に入れお気に入りになった。

どう?素敵でしょ

うん。綺麗だ。

頻繁に行き来するようになり
些細なことで良く笑った。

ある時、ジョニィにチャンスが舞い込んだ
五番街を離れ、北の街に行く必要があった
一緒に行こうと言えば良かったのに
夢を追うために、平凡な日常は邪魔な気がした。
若かったのかも知れない。

結局、その日、会わずに行くことにした。
あの笑顔を見ちゃいけなかったから。

マリーは、「その日」の事を共通の友達から聞いてしまった。
でも、あることをジョニィに告げれば、全てうまく行く気がした。
とてもハッピーな事だったから

いつもの場所で待った
お気に入りの服で

二時間

体の中に芽生えた、小さな命と一緒に。

ジョニィに良く似た、男の子だった。

いつも一緒
些細なことで良く笑った

とても寂しくなることはあったけど
そんなときは、青い服を着て
息子と一緒に、知らない街に出掛けた。

ある街で、小さな画廊に入った。

息子がある肖像画を見つけた。

お母さんと同じ服だね

涙が溢れる
次から次から

まだまだねえ
ちっとも似てないじゃない。

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イヌマキ

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[名僧]最澄。日本の仏教の半分はこの人

名僧シリーズ

平安時代に入っていきます。

いよいよ、この人です。
平安時代の、というより
日本の仏教の半分はこの人が作ったと言っても良いでしょう。
鎌倉仏教と言われる各宗派も
最澄の天台宗からの派生だと言えますから。

さあ、気合いを入れて参りましょう

最澄(さいちょう)
767~822。天台宗

奈良時代末の天平神護元(767)年、近江国(現在の滋賀県)の琵琶湖西岸の坂本というところに生まれます。
幼名は広野

父親は三津首百枝(みつのおびとももえ)といい、中国からの渡来人の子孫
やっぱり、この時代、渡来人は優秀なので、その血を引いている最澄もとても優秀。

この坂本という土地は比叡山(ひえいざん)の麓。
幼い頃から、比叡山を見ながら育ちます。

12歳のとき近江の国分寺の行表(ぎょうひょう)という僧侶の元に預けられます。
行表は近江大国師として近江国分寺を総括する高僧だった。

行表は最澄に言いました。
「心を一乗に帰せ」

一乗、すなわち大乗の精神によって一切衆生の救済の道に邁進せよ。
要するに、頑張って、みんなを救ってね。

19歳のときに東大寺で具足戒を受けて正式な僧侶となった。
この時、僧は国家公務員なので、公務員試験に見事合格、ってことです。

このとき、最澄という法名が授けられました。

エリートですね
超エリートです。

さあ、バリバリ仕事をしていただきましょう。

比叡山
ところが、比叡山にこもっちゃいます。

比叡山は山岳修行者たちの溜まり場
山岳修行者は仏教伝来以前からの日本独特の信仰で
仏教を取り入れてはいるものの、仏教界では異端中の異端
当然、国家資格は持っていません。

お母さんに、
あの子たちとは遊んじゃダメ、と言われるような存在です。

36歳までの、実に17年間も独自の修行を続けます。

修行の最初の頃に書いた「願文(がんもん)」では
「心を一乗に帰す」決意宣言

南都六宗と言われる奈良時代の仏教各宗派
もちろん悪くは無いんだけど
全てをマスターした上で
みんなをあまねく救うという唯一の目的のために、それは十分なのか、と自問自答

もし、更なる可能性が他にもあるのなら
やってみる

内供奉十禅師
31歳の時、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に選ばれます。
仏教界の最も偉いお坊さんベストテン

名だたる重鎮たちに31歳の若造が肩を並べたと言うことです。

ちょっと変に思いますよね
36歳まで比叡山にこもった筈

山にこもるって
俗世間から離れ
滝に打たれたりしつつ
髭ぼうぼうで、ガリガリに痩せちゃって
ってイメージを描きますよね。

最澄の一貫した姿勢なんだけど、
貪欲に色んなものを取り入れるんだけど
何かを排斥するということをしない。

山にこもっている間も、既存各宗派に喧嘩をしかけることなく、ちゃんと付き合っていく。
あれもこれも全部

ここが、良く比較される空海と違うところかも知れません。

どんどん仏教界に革命を起こしていくので
勿論風当たりも強いだろうし
実際に後半生はかなり攻撃されるんだけど
それでも自分から何かを潰しに行くということをしない

ひたすらに取り入れるだけ

大先輩方を集めて「法華十講」なる法会を行ったりもしています。
ちゃんと重鎮たちが参加しているから不思議です。

遣唐使
仏教界でほぼ上り詰めた最澄
残っているのは「どんどん取り入れる」総仕上げ

仏教の本場中国です。

特に、最澄が一番教わりたかったのが
天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が大成した天台宗の奥義
「法華経」を中心として、各宗派を融合した純大乗の教え

各宗派を融合した、っていうのが最澄向きです

国に
中国行って勉強して良いですか

勿論!
じゃあ、他にも行きたい人集めて
遣唐使(けんとうし)ってことで。

最澄はリーダー的立場。
還学生(けんがくしょう)と言って、ここまで、と自分で決めていつでも帰ってこれる。

同じ遣唐使に、実は空海も参加していた。
当時無名だった空海は、留学生(るがくしょう)という立場
20年以上はいなきゃいけない。
結局は大幅に短縮するんだけど、その辺のいきさつは空海の時にね。

中国で
あれもこれもっ

徹底的に凝縮した一年間
修善寺座主道邃から天台円教と梵網戒を、
仏隴寺座主行満からは天台円教を授けられ、
そのほか、禅や密教の教えも受けた
すごいですね
漢字がいっぱいです。

当地の僧侶たちの協力を得て多くの経典を書写
密教法具なども収集して帰国した

帰ってからは、シリーズの次回ね

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オタフクナンテン

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[百人一首]99 人も惜し~。いよいよ

人も惜し 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は

人がいとおしく思われ、また恨めしくも思われる
この世の成り行きが思いにまかせず、情けなく思うがゆえに
あれこれと思い煩っているこの私には。

前置きが長くなりましたね
[百人一首]99 その前に、後鳥羽院について
[百人一首]99 承久の乱
[百人一首]99 承久の乱、その2

藤原定家
後鳥羽上皇は、自分で欲を出し、事を起こし、読み間違えて完敗したわけだから
何の同情の余地もないんだけど

あまりに各方面に卓越していた人なので
いらんことしなければなあ、という感が拭えない。

おそらく、その思いを生涯強く持ち続けた人が、藤原定家だったんだろう

藤原定家は、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて出入り禁止

普通なら恨んでしかるべきなのに
どうしても嫌いになれなくて

バカな失敗の後も
通常なら、ざまあみろ、なんだろうけど
ひょっとすると、誰から見てもバカな失敗だったが故に、なおさらに
後鳥羽上皇のために、何かが出来ないもんだろうかと

天下の罪人な訳だから
もちろん何も出来ないんだけど
トライするだけしてみた。

次の天皇、後堀河天皇から命じられた「新勅撰和歌集」
これは、従来のように複数の撰者ではなく単独。
自由にしていい。

後鳥羽上皇の作を入れてみた。

悪い
他は全部OKだけど
これだけはNGね

ですよねー
あっさり引っ込める。

藤原定家、晩年となる
そこに、襖に貼る色紙として、あくまでもプライベートに依頼された百人一首

ずっと持ち続けていたひとつの思い。
ここだっ

藤原定家、人生の全てをかけて取り組む
第99首に、後鳥羽上皇のこの歌を入れるために。

あり得ますか
嫌われた相手にそこまで

百人一首を理解することは、後鳥羽上皇を理解することだと思った
それほどまでに惚れ込まれる男ってどんな男なんだろう

どうにも気になって
承久の乱にちょっとのめり込んじゃいました。

隠岐の島で
隠岐の島に流された後鳥羽上皇

意気消沈ではあるでしょうが
そこはやっぱり、後鳥羽上皇

和歌を作り続けます。

もちろん発表の場なんてないんですけどね。

さらに
昔の和歌を取り寄せる事は許されたから
いっぱい送ってもらって、自分なりの和歌集を作る

「遠島百首」「後鳥羽院御自家歌合」「時代不同歌合」
他にも色々あって
「定家家隆両卿撰歌合」

えっ、家隆は分かるとして
あんなに、ぼろのちょんに言っていた定家をここで?

そして、最晩年に完成したのが
「隠岐本新古今和歌集」

そう、あの「新古今和歌集」を自ら改訂したんです。
二割近い380首くらいを削除した。入れていた自分の歌も結構削除している
この事で、大喧嘩したんです。藤原定家と。

「おわりに」に書いてあります。

二千首というのは多すぎました。
自詠を三十首余りも入れたのは、集の価値を下げることを考慮しない振る舞いでした。

鑑賞
流された後の歌かと思いますね
違います。
承久の乱の9年前に詠まれています。

ずいぶん考えたでしょうね

数多い後鳥羽上皇の歌の中から
流された後の歌かとも思えそうな歌を持ってきたんでしょうか

あるいは
この歌が詠われた頃は大喧嘩の真っ最中ですから
「人も惜し 人も恨めし」のこの「人」は
藤原定家そのものと読んだんでしょうか

喧嘩の後のあの独特の感情
腹わたが煮えくり返っているから
ずっと興奮しているんだけど
でも、あの言い方はまずかったな
あそこまで言う必要はなかった
いや、もとはと言えばあいつが・・

頭の中を色んな感情が行ったり来たり

定家自身、激情家だから
「あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」
の心の揺れが、嫌と言うほど良く分かり
ああは、言われたけど、上皇だって思い悩んだんだろうなと

でも、お互い、ごめんなさいなんて言える性格じゃなく
お互いの晩年に
百人一首の第99首にこの歌を入れたり
隠岐本新古今和歌集の「おわりに」に書き入れたり
っていう表現の仕方しかできなかったんでしょう。

この歌
定家自身の気持ちを代弁した歌なのかも知れない。

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黄金まさき

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[百人一首]99 承久の乱、その2

[百人一首]99 その前に、後鳥羽院について
[百人一首]99 承久の乱
の続きです。

京都で
京都の側で大事件が起こった

源氏は全ての血が途絶えた訳ではない
実朝の息子はいないにしても
直系でなければ、源氏は色々いる。

そのうちの一人、源頼茂(よりもち)
京都の、大内裏(だいだいり=宮城)の中で仕事をしていた。

実朝が死んだとなると、当然将軍の座は自分に回ってくる筈
違うの?
しかも、源氏じゃなく、藤原だなんて

頼茂が反乱を起こすんだけど
鎌倉じゃなくて、京都

後鳥羽は、将軍と執権の方で何とかしてよと言いたいところだけど
京都で事を起こされては仕方ない
在京武士に号令をかけて、鎮圧

そこまでは良かったんだけど
破れかぶれの頼茂が死ぬ間際に、大内裏の中に火を放っちゃった。
宮城丸焼け

えらいことになった。

そもそもが、後鳥羽は、平家に祭り上げられた幼少天皇、安徳天皇がまだいるのに
私が天皇、と宣言しちゃっている。
代々天皇である証に、三種の神器というのを引き継いで天皇になるのに
安徳天皇が持ったまま
さらに壇の浦の海に身を投げた安徳天皇、
三種の神器も一緒に、ザッブーン

真意は分からないけど、海の中から見つかった、ってことにして
ギリギリ何とかしている
ここへきて、さらに宮城そのものがなくなったとなると
とてもとてもまずい

すぐに建て直さねば

でも色んなお宝も一緒に燃えちゃって
一気に貧乏になっちゃった。
保険とかない時代ですからね。

自信家でワンマンではあっても、政治的にも文化的にも
能力がちゃんと伴っていて
激情家ではあっても、人間的魅力があった人。
おそらくここまではうまくいっていた。

急に歯車が狂い出す。
貧乏は辛いね

大内裏再建のための膨大な資金を捻出するため
税金の率をぐんと上げちゃった。

御家人という役人たちは大反発

こりゃ、まずいことになっているかも

だんだん本人も気づき出した。

大内裏再建完成!と宣言。
歴史上異例なほどの早さで完成した。

でも「承久の乱」の本によると、おそらく嘘

そんな期間で完成する訳がない。

完成した事、にして外見だけペタペタ

大内裏再建という大事業にかけるエネルギーを他のことに向ける方針転換

おそらくこういうこと。

ああ、だんだん腹が立ってきた。
そもそも、今の状況は
鎌倉が悪いんじゃないの

実朝が殺されたのも
頼茂が反乱を起こしたのも、将軍家の後継者争いという、内輪もめ
なんで、とばっちりを受けなきゃならないの
将軍家は、もう藤原になっちゃったからまあ良いとして
補佐役の、執権が悪いんだよ
そう、北条
あいつらを倒したら正しい世の中がやって来る

少なくともまだこの時点では、最初に言ったように、3対1
いろんな事が、表面化はしていない
さらに、頼茂鎮圧のとき、在京の武士を鎌倉に断りもなく、勝手に使ったんだけど
彼らは実に良く働いてくれた。

彼らは完全な私の味方だ。
勝てる。

承久の乱
北条義時を討て
全国に命令

鎌倉幕府を討て、ではない。

今、将軍は京都から来ている藤原氏

将軍に仕えている御家人たち
参った、どうしよう

いたんですね。
北条に切れ者が。

北条政子は御家人たちを集め
歴史上有名な演説を行う。

頼朝殿の恩は山よりも高く、海よりも深し

みんな、頼朝は大好き。
亡き頼朝に受けた恩をそれぞれ思い出して涙が溢れる。

執権を討て、なんだから執権の人間がどう演説しようが
執権に仕えている訳じゃない人間にすれば
なんであんたの言うこと聞かなきゃならないの?
私の親分は将軍ですけど。

ここをすり替えて
後鳥羽が、あたかも頼朝を討て、と言っているように思わせる大演説

みんな、亡き頼朝殿のために、と一丸になった
頼朝殿の仇ーっ

怒濤の攻撃が、後鳥羽上皇側に浴びせられます。

完敗
まさかの完敗
隠岐の島に配流
生涯許されることはなく、隠岐の島で生涯を閉じる

行動を共にしていた、次男の順徳院は佐渡に配流

長男、土御門は、後鳥羽上皇に嫌われ、順徳天皇に譲位させられたという経緯があるので
承久の乱には同調しなかった
ただ、私だけ何もなしはダメでしょうと
自ら配流を希望して土佐へ

さあ、いよいよ続いて明日
本題の百人一首第99首に入っていきます。

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オキザリス・桃の輝き

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