[ことば日本史] 小田原評定

ことば日本史、戦国時代から

小田原評定(おだわらひょうじょう)
天正18年(1950)、豊臣秀吉は、諸大名を動員して、
上洛の要求を無視した関東最大の戦国大名、後北条氏を攻めた。

氏政は自害し、氏直は高野山に追放されて後北条氏は滅びた。
その旧領は徳川家康に与えられる

北条氏政・氏直父子は、本拠である相模小田原城での籠城策を採ったが、
秀吉は圧倒的な武力で城を包囲し、
関東各地の支城を攻略したので、孤立した氏直は降伏した。

この戦いのさい、
小田原城のなかでは連日、評定がもたれて対策が話し合われたが、
いつまでも意見がまとまらず、ただ空しく日を過ごすばかりだったという。

それにちなんで、
いつまでもまとまらない会議や相談を、「小田原評定(おだわらひょうじょう)」というようになった

この秀吉の勝利によって、奥羽の諸大名も帰服して、
秀吉の全国統一が完成する。

多いですよね、小田原評定
日本の会議はこんなのばっかり
自分が決めた、という形になると
うまく行かなかったときに具合が悪い
「そういう考えがないではないとも、まあ言えなくもない」

私は若い時、小田原評定の会議に出るとイライラして
「だから結局どうなんですか」と食ってかかった
でも、だんだん分かってきた
そういう態度を取ると、敵ばっかり作って何一つ良いことがない

日本においては、小田原評定ってとっても便利
そのテーマが話し合われたという事実だけで十分
結局玉虫色なわけだから
自分の考え通りに進めちゃえば良い

うまく行けば、
いやあ、流石ですね
○○さんの意見の通りやったらうまく行きましたわ
と、持ち上げときゃ上機嫌

うまく行かなきゃ
いやあ、こう決まったと勘違いしてやっちゃいましたわ
失礼失礼
みんな、大してどっちでも良いと思っているから小田原評定なわけなので
責められやしない

下手に自分の考えと違う結論にちゃんと決まるよりよっぽど良い
結局結論決まってないぞ、ラッキー

歳の功と言うのでしょうか
こう思えるようになりました。

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[ことば日本史] 三日天下。その謎

「ことば日本史」シリーズ、戦国時代から

三日天下
1582年、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、
京都に入って天下を掌握。
しかし、わずか11日後の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、
逃走の末に討たれた。
このことから、実際の天下は「三日間」ではなく約11日間だったものの、
「三日」と表現されることで短さが強調されている。

光秀を生んだ岐阜県では、伝説が伝わっている
光秀の母は、懐妊したとき、岩の上に立って水垢離しながら、
と祈った。
「たとえ三日なりとも天下を取るような男子を授けたまえ」

短期間だけ政権や権力を握ったものの、
すぐに失脚してしまうことを指す言葉として、一般的にも使われる

明智光秀は本当に天下を取るつもりだったんだろうか
私は個人的に、本能寺の変は日本史三大謎の一つだと思っている

こういった謎は、色んな人が説を展開するものなので
いくつか紹介してみましょう。

1. 野心説(天下取り説)
「光秀は自ら天下を狙っていた」
光秀は織田家の重臣の中でも高い地位にありましたが、
織田信長の下ではこれ以上の出世が望めないと考え、
自ら天下を取るために信長を討ったとする説。

2. 怨恨説(個人的な恨み)
「信長の過酷な仕打ちに耐えかねた」
信長は短気で気性が荒く、家臣に対しても厳しかったことで知られています。
光秀も何度か信長に冷遇され、屈辱を受けたとされています。
けっこうこの説が一般的でしょうか

3.黒幕説
「謎もの」には黒幕説ってつきもの
黒幕は誰かについては、その事件で結局は一番得したのは誰なの?
って発想から名前が上がっていきます
織田信長が死んで得する人
(1)朝廷
織田信長は朝廷を軽視していたようなので、そういう説が生まれます
(2)豊臣秀吉
単純に、織田信長の次に天下を取ったのは、秀吉だから、って発想ですが
光秀は秀吉に討たれた訳ですからね
この説だと、秀吉が光秀をそそのかして信長を討たせ
その後、さらに秀吉はその光秀をうってところまで計算していたということになるのでしょうか
(3)徳川家康
これはまた、大胆な説
まあ確かに、秀吉のさらにあとに天下を取ったのは家康ですが
そこまで遠大な計画をしていたのだろうか

まあ、歴史学者じゃない我々一般人は結局正しい答えなんて
最後まで分かりっこない。
一番面白い説を信じるっていうのが歴史を楽しむ方法だろうと思う
まあ、誰かに迷惑がかかるわけではないからね

とはいえ、私としては、やはり一般的に言われている怨恨説が中心ではありますが
単純な怨恨だけではなく、他の理由もあった複合的なものだったんだろうと思います。

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[ことば日本史] 天下分け目の天王山

羽柴秀吉は、信長の死を知ると、包囲中の高松城の毛利氏とただちに講和をむすび、
迅速に兵をかえし、西国街道を上がってきた。

勝負は、京都盆地にはいる大山崎でつけられることになった。
秀吉は、摂津の諸将を糾合して富田に着陣、
織田信孝らの兵を合わせ、軍を山手、中手道筋、川手の三手に分け、
十三日に進撃する。

光秀は、細川、筒井氏を欠く劣勢のまま
勝竜寺城から淀城の間で迎撃しようとし、
十三日午後、秀吉の軍と激突。

光秀側で戦上手で知られる斎藤利三が大活躍
序盤は、光秀軍優勢に進みます。

天王山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田官兵衛らの部隊は、
天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦状態に入ります。

そのまま1時間ほど、一進一退の攻防を続けますが、
右翼(川手側)に配置されていた、池田恒興、池田元助、加藤光泰らが密かに円明寺川を渡河し、
津田信春を奇襲します。
それが光秀本隊の側面を突くような格好になり戦局が一変します。

あえなく敗退した光秀は、夕方、勝竜寺城に入り、
深夜を待って、近江へ向けて逃走するが、
その途中、山科の小栗栖(おぐるす)で土一揆に襲われて殺された。

この山崎の戦は、
序盤の天王山での攻防が勝敗を決したといわれるようになり、
天王山の戦とも呼ばれるようになった。
そこで、 勝負のかかった山場を「天王山」というようになった。

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[ことば日本史] 洞が峠を決め込む

「ことば日本史」戦国時代から

洞(ほら)が峠を決め込む
明智光秀が本能寺に信長を襲った翌日の6月3日、
高松城を包囲中だった羽柴秀吉は知らせを受けとった。

秀吉の判断と行動はすばやく、
翌日には毛利軍と講和をむすび、
6日に高松を出発、7日には姫路に入った。
いわゆる「中国大返し」である。
9日、姫路を出発。
11日、尼崎に到着。
12日、摂津富田へ進出し、その翌日、
山崎で光秀軍との決戦「山崎の戦」となる。

ここで慣用句の主は筒井順慶
そのお父さんは「元の木阿弥」の時に紹介した筒井順昭です
[ことば日本史]もとのもくあみ
もともと、光秀に仕えていたから
光秀から応援要請を受けた

ところが
筒井順慶は山崎の戦いの様子を見守れる近くの洞が峠陣を張ったまま

どうしよっかなあ

光秀軍の敗北がはっきりしてきた頃になって、
よし、出陣
秀吉軍に参加した。

これにちなんで、情勢を日和見しながら有利な方につこうとするような態度を、
「洞が峠を決め込む」と呼ぶようになった。

ただし、これは後の創作
順慶は洞が峠には出陣してさえいなかった。

藤田達生『本能寺の変の群像』(雄山閣)によれば、
光秀のクーデターは、室町将軍義昭、朝廷、本願寺などに根回しして
周到な準備のうえで決行されたものだったという。

だが、山崎の戦になるまでに秀吉が、
信長は無事であるという虚偽をもふくめた情報と協力依頼とを
すばやく各地に送り届けたために、
クーデターに呼応するはずだった
細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶、摂津の諸将らは、
光秀を見捨ててしまったのである。

とはいえ実際にも、
世の噂では光秀につくものと思われていた順慶が、
兵を動かしたのは戦の翌日、14日。
本人が上洛して陣を張ったのは15日。
あまりに遅すぎて、秀吉から叱責を受けている。

洞が峠という場所にはいなかったにせよ、
迷いに迷いながら、情勢がはっきりしてから
態度を決したことは確かだった。

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