[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ

「日本語の発音はどう変わってきたか」という本を読みました
古代の日本語の発音は今の発音とは違うものだった
どういう発音であって、それがなぜ変わってきたかという理由までも解き明かそうというもの

それでは、何回かに分けて紹介していきましょう

なぜ分かるの?
昔、録音機なんてありません
五十音をどう発音していたかなんて分かりっこない気がします
それが分かるんですね。大したもんです

最初から日本語が日本の文字として存在していたら難しかったかも知れませんが
日本語はあったのに文字はなかった
漢字がそれに割り当てられていって表現されるようになった
万葉仮名(まんようがな)と言われるもの
万葉集とかは、漢字だけが音を表現するものとして、ずらずら並んでいる
考え方としては、今でも例えば人名をつけるとき「由香(ゆか)・恵理(えり)・美由紀(みゆき)」という風に音に漢字を割り当てる。それと同じです

やま、こもる、ほととぎす、のような今でも使われている日本語が、
古代から使われている事が分かります

万葉仮名は飛鳥・奈良時代ころの中国隋唐音(中古音)の影響下にあり、
中国中古音が分かれば同じ時期の
八世紀奈良時代語の発音が再建できる

幸運なことに、伝統的な漢語音韻学は中国中古音(隋唐音=呉音)の復元に最大の精力を注いできた
なぜかというと、試験に出るから
中国で役人になろうとすると、漢字を昔の発音で読めること、という試験がある
その試験のためのテキストもあるのですが
今の発音記号のようなものは当時ないので、漢字の発音を漢字で表記します
半切、という方法なのですが、詳細はややこしいので割愛します
さらに、後にカールグレンという人が比較言語学という手法で
中国語を他の言語から解説した辞典を大量に分析し、精度アップ
中国中古音の発音はかなり正確に分かっていると考えて良い

カールグレンが中国の昔の発音を頑張って解析したように
日本でも、万葉仮名を頑張って解析して当時の発音を明らかにしたのが、有坂秀世

例えば「コ」の万葉仮名には「古・湖・胡・己・許・去・虚」と幾つもあって、
基本的にそのうちのどれを使っても「コ」の音が表示できるはずである。
しかし、実際には「箱・婿・子・越す」等の「コ」には「古・湖・胡」の類の万葉仮名だけを使い、
「事・琴・心・底」等の「コ」には「己・許・去・虚」の類の万葉仮名だけを使って、
互いに侵さない関係を維持していた
要するに「コ」には2つの発音があった

そういった地道な分析で分かったのが以下
1.奈良時代には「イ・エ・オ」列の母音が二種類ずつ、計八母音があった
2.ハ行子音は、現代語のようなh音ではなくp音つまり「パ・ピ・プ・ペ・ポ」であった
3.サ行子音はs音ではなくts音つまり「ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ」であった

特に、1.の八母音は、奈良時代に特有で、平安時代にはもう既になくなってしまう

奈良時代
このあと、時代を追って、日本語の発音がどう変わっていったかを説明しましょう
まずは奈良時代

まずは、ハヒフヘホがパピプペポだったところ

中国中古音でhの音である「昏・忽・欣・訓・海・火」は万葉仮名に一切登場しない
だから当時の日本にはハヒフヘホの発音がなかった
「昏(コン)・忽・(コツ)・欣(キン)・訓(クン)・海(カイ)・火(カ)」
とカキクケコの行だと思われている
当時の人たちはカキクケコの音だと思った
現代の私たちが英語のviewを「ビュー」のように原音vをバ行音bで把握するのと同じ
実はカ行と今のハ行は結構近い

ハヒフヘホに当てられていたのは、「波・比・布・倍・保」等
これは中国中古音ではPaPiPuPePo

ところが、ハヒフヘホがパピプペポであったのは、奈良時代の間だけなんです
平安になると、変わります
ハヒフヘホになったと思うでしょ。違うんです
ファフィフフェフォになる
そのあたりは平安時代のところでお話しましょう

また、サシスセソがts音つまり「ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ」であった

ずいぶん前になりますが
金鳥どんとの宣伝で縄文人が
「ちゃっぷいちゃっぷい、どんとぽっちい」
と言うのがありました

当時、その製作スタッフが「このセリフは、学問的研究を踏まえている」と言っていたらしい
縄文人というのは分からないにしても
ある程度納得がいく
恐るべし金鳥どんと

続きは次回ね

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[ことば日本史] 高をくくる。高がしれる

ことば日本史、室町時代から


年貢や稲の収穫の見積もりの多少を「高」と呼んだ。

鎌倉時代末期までの荘園制の時代には、
田畑や屋敷の広さや等級に応じて年貢が徴収されていたが、
この体制が崩れてくると、金銭によって納めることが普通になった。

そうなると土地は、納める銭貨の「高」で示されるようになり、
「何貫文の土地」というふうにいわれるようになる。
これを「貫高制」という。

戦国大名たちは、この「貫高」によって土地の価値を把握し、
征服地を家臣団に給付するときも、これを知行高とした。
これは、実際に納められた額によるから
本当にその土地にどれだけの生産力があるか、や
どれだけ生産できたか、
ではなく領主と領民の力関係で変わってくる

強い領主のもとでは絞りとられるので、あたかも多く生産できたかの如くになる
全国まちまちになるので、「基準」とは言いがたかった

そこで豊臣秀吉は、「太閤検地」を行って、屋敷や耕地の面積をはかり、
生産高と面積とをかけて「石高」を算出した。

これによって年貢高から見積もり生産高へと、
土地評価の基準が変わったわけである。

これを「石高制」といい、
以降は江戸時代まで、家臣の知行地も石高で表示されるようになった。

石高は、大名や家臣の家格や軍役負担の基準であり、
この制度は幕藩体制の根幹となるものだった。

こうしたところから、相手の「高」を計算し、
みくびることが「高をくくる」とか「高が知れる」ということになる。

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日本語には、昔、「た。」も「である」も無かった

日本語には、昔、主語も文も無かった
の続きです

「た。」は過去形か
面白い問いかけですね
そんなの過去形に決まってます
学校で習いました

ただ、言われてみると微妙

ピッチャー振りかぶって第一球を投げました
打った

うーん、過去形?
現在形と言った方が良いような

同じような場面を英語で実況放送する場合は
現在形が使われている

これも昔は無くて、翻訳の中で作られたものだから
明確な形になっていない

江戸時代、蘭学者の中で、オランダ語を訳すとき
過去形や現在完了形を「~た」と訳したことに始まる
ただ、この時でも、「~た」を使うことは少数派
日本語の過去形としては「し」「けり」「たり」を使うのが一般的

「~た」を過去形として一般的になったのは、明治30年代、二葉亭四迷などから始まった
小説文の影響かと思われる

「た」はもとは助動詞「たり」の連体形
(たるなんじゃないかという気もするが)
後ろに何かが続くはずなので、「た」で切れる文はほとんど使われなかった

二葉亭四迷自身も使っておきながら反省していて
どうにもぎくしゃくしていて出来栄えが悪い、と言っている

今、口語ではどうかというと「た」で終わる文は使われない
「たね」「たよ」とか
そう言われればそうです
「た」で終わるってぶっきらぼうで、喧嘩売ってんのかってなります
「分かった」とか言うのは、もういいからこれ以上言うな、って時です

本によると、現在形の「食べる」のような「ル形」と言われるものも
翻訳で作られたらしいのですが
ここは、私自身、うまく理解できなかったので省略

である
「である」も以前の日本語には無くて、翻訳で作られたもの

夏目漱石の「吾輩は猫である」は
それまでの日本語にはない「~は」と「~である」を組み合わせている。
ね、変な日本語でしょ、笑ってやってください、という趣旨

日本語は「空は青い」とか「山は富士」のように
形容詞や名詞もそのままの形で述語になりえる
英語ではあくまでも述語は動詞
形容詞や名詞を述語で表現しようとすればbe動詞を使わなきゃならない
isとかです。懐かしいなあ、学生の時にbe動詞って言ってたなあ

日本語とは順番が違うので日本語の場合はisに当たるものを後ろに持っていって
「である」という言葉を作り出した

翻訳にのみ特有の言葉だったんだけど
明治になって、小学校の国語教科書に「デアリマス」が登場する
「あります」は江戸の遊里に特有な言葉だったんだけど
明治になって、教科書を作るとなったとき、方言を避け「標準語」を作ろうとして
「あります」と「である」から「デアリマス」の表現を使うようになった

教科書に載れば広がってはいきますが
やっぱり違和感ありありなので
吾輩は猫である、は当時今以上にヘンテコ文としてとらえられたんでしょう
それが有名になって、であるは逆に堅苦しい表現としては一般的な表現となっていったのかもしれない

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日本語には、昔、主語も文も無かった

「近代日本語の思想」という本を読みました

知らなかった事がいっぱい
へえ、日本語って、そんなに色んなものが無かったのか

まずは主語から

主語
これはなんとなく聞いたことがあるような

学生の時、英訳するときに苦労した覚えがある
英語ってめんどくさいなあ。いちいち主語を考えなきゃならん

言語学者の間では、日本語に主語があるかないか論争があるらしい
「近代日本語の思想」の著者柳父章さんによると
昔は日本語に主語はなかった
そもそも主語という概念が無かった
ところが、蘭学として江戸時代に西洋文化が入ってきて
翻訳するために「~は」という表現がされるようになった
広まったのは明治になって、大日本帝国憲法が発布されてから

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
:

いちいち「~ハ」で始まっている
伊藤博文がドイツ人法学者ロエステルの憲法試案を翻訳したのをスタート台にしているから。

聖徳太子の十七条の憲法では「~は」はない

第一条、和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す
第二条、篤く三寶を敬へ、三寶とは佛と法と僧となり
第三条、詔を承けては必ず謹め
第四条、羣百寮體を以て本とせよ
:

明治が始まる時点の、五箇条の御誓文にも「~ハ」はない

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ我國未曾有ノ変革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保仝ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

柳父章は、明治以降広まったのは主語らしきものであって、主語とイコールではないという
主語というのは、西洋の概念なので近づいてはいてもイコールにはなりえない

いちいち「~は」をつけるのは勘弁だが、「~は」は慣れ親しんでしまっているので
無いのは無いで困る

では、主語って本当に「~は」なのか「~が」とどう区別すれば良いのか
「象は鼻が長い」の主語は象なのか鼻なのか

我々は言語学者ではないので、書いてあった難しそうな事は省略
もともと今の日本語に現れたのは主語的なものであって厳密に主語ではないので
「~は」も「~が」も主語的って事でばくっと解決にいたしましょう


それよりびっくりなのは、「。」で区切られる文(センテンス)が無かったということ
英語には必ず「.」ピリオドがあって、はいここで文(センテンス)が終わり
それを翻訳するに当たって、「。」を使うようになった
それをかなり強力に推進していったのが明治になってからの教科書

主語ってこの「文」というまとまりを支配する概念なので、文あっての主語

平安時代は、「。」だけじゃなく「、」も段落も無かった
もっと言うと、漢字かな混じり文も無かった

この辺はその前に読んだ「日本語の発音はどう変わってきたか」に詳しい
発音の話もまた改めてしますね

紀貫之の土佐日記に始まる平かなの開発は、その時点で漢字かな混じり文になった訳ではなく
平かなばかりが続いていく文
それも、区切りがなくただ文字が続いていく

あまりに読みにくいので、漢字かな混じり文にして、区切りで行を分けるようにしたのが
あの百人一首を編纂した藤原定家
大革命がなされた事になる
かなり読みやすくなったんだけど、句読点はまだ無かった

その後も、今からたった100年ほど前まで、短く文を切る事はせず
かなり長く続くことが多い
敢えて「。」をつけたが、金々先生栄華の夢は、以下の感じ

今ハむかし片田舎に金村屋金兵衛といふ者ありけり。生まれつき心優ゆふにして浮世うきよの楽しみをつくさんと思へども、いたって貧しくして心にまかせず。よつてつくづく思ひつき、繁華はんくわの都へ出で奉公を稼ぎ、世に出て思ふまゝに浮世の楽しみを極めんと思い立ち、まづ江戸の方へとこゝろざしけるが、名に高き目黒不動尊ハ運の神なれば、これへ参詣して運のほどを祈らんと詣まふでけるが、はや日も夕方になり、いと空腹になりければ、名代の粟餅を食わんと立ちよりける。

もともと「。」は芝居の台本で、台詞で間を開けてほしい時の記号

学校での教育により、「。」をつけることが広まったとはいえ
最初の頃は、専門家のはずの小説家でさえ、今の我々からみると「、」と「。」が混同されているケースがかなりある

このあと
「た」で終わる文は無かった
「である」は無かった
と続いていきますが、次回といたします

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