明治の東京は牧場だらけ

いきなりクイズです。

【問】明治の中頃、牧場が一番多かったのは、どこの県でしょう。

全くクイズになってませんね。
タイトルで答えを言っちゃってます。

【答】東京

ダントツです。
圧倒的です。
それも、今で言う23区内。

いよいよでーこんは気がふれたか

次のクイズも、まず問だけ出しておきましょう。

【問】なぜ東京に牧場を作ったんでしょう

答は5つもあるので、どれでも正解です。
このあと、答を書きますので考えてみてくださいね。

榎本武揚の話の中で、東京のど真ん中に牧場を作ったという話をし
近いうちに書きますねと言いました。

黒田清隆に呼ばれて北海道に行って
生活の拠点はどちらかというと北海道にあった。
牧場作りたいんなら北海道に作りなさいよ、ですね

オランダ留学の時に得た、牧場運営のノウハウを人に教えて
東京の北辰社牧場は最初は人に任せている感じ
後の東京農業大学に繋がっていく訳ですけどね

実は榎本武揚だけじゃなく、色んな人達が
東京のど真ん中にどんどん牧場を作っていっているんです。

理由があるからです。

【答1】外国人がたくさんいた。

もう一個の答も続けて

【答2】江戸っ子は新し物好きだった。

古くから、馬と共に牛も日本で慣れ親しんだ動物ではありますが
牛肉を食べる習慣も牛乳を飲む習慣もありませんでした。
もちろん、パンなんてないから、バターやチーズも食べなかった。
世界的に見て、乳を飲む習慣の無い国ってかなり珍しいらしい。

牛は馬同様に、野良仕事で使われる労働力だったんですね。

地方で、牛乳なんて作っても、それ何?な訳です

ちなみに、15代将軍、徳川慶喜は新し物好きなので、豚肉を好んで食べて
「豚一様」と陰口をたたかれています。

【答3】運べなかった。
当時はまだ、殺菌等の保存技術も、輸送のためのインフラもまだまだ整備されていませんでした。

外人さんや江戸っ子が沢山いる、江戸のすぐそこで作らざるを得なかった。

【答4】土地が余っていた。
これ意外でしょう
びっくりする理由ですね
普通、もうちょっと土地の余っている郊外にしたら?って思いますよね
違うんです。
都心こそ、土地が余っていたんです。

これ実は、明治維新になって、首都をどこにしようかと考えて
最高権力者、大久保利通が大阪に決めていたのに
前島密が、東京にすべしと言った一番大きな理由と一緒です。

東京都心には思いっきり土地が余っていた。

江戸という町の、世界中どこにも例の無い特殊な構造によります。

参勤交代で、一年おきに諸藩の武士が仮の生活
出張者だらけの町で、そのために幕府は上屋敷、中屋敷、下屋敷の土地を与えます。
江戸の半分以上がその屋敷

明治維新で参勤交代制度がなくなり、
みなさん、国に帰ってね。

東京の町はもぬけのからの、すっからかんになります。

面白いね。
最も発達していた町のど真ん中が、すっからかんって
世界中どこ探してそんな町があるでしょうか

牧場?土地がいる?
はい、ウェルカムでございます。

もうひとつ、東京市が積極的に進めたのが桑畑です。
明治の始め頃の地図を見ると東京のど真ん中に「クワチャ」「クワチャ」
桑畑だらけです。
開国以来、幕末の輸出品は一位が生糸、二位がカイコの卵、三位がお茶ですから。

こっちの方は、うまくいかなかったらしくて、かなり急激に無くなっていくんですけどね。

【答5】人が余っていた。
武士の失業対策です。
武士は食わねど高楊枝、なんてなことを言っている場合じゃありません
突然時代が変わっちゃいました。

武士も頑張れ、乳搾り

明治後期
明治後期になりますと、次第に郊外に牧場が移転していきます。
5つの理由が解消されていったからですね。

あとは、一時期急激に増えた鉄道馬車が、また急激になくなっていった理由と一緒かな
やっぱり、ちょっと臭いかも

お役所
お役所は、牧場なんて見たこともないから
変な決め事を作っちゃったりしました。

乳を出さない雄の牛は飼ってはいけません。

は?
ビックリした牧場関係者たちが大挙して、お役人に詰め寄ります。

あのねえ
牡牛がいないと、子牛が産まれないんですよ。

あらそうなんだ
ってことで、一頭ずつは認めましょうとなった。

牛乳の普及
江戸っ子は新し物好きと言っても600年以上も日本人は牛乳を飲んでいません。
やっぱり強烈な抵抗感がある。

そんなもの飲んで、牛になっちゃやせんじゃろか

一方で明治政府は、産めよ増やせよの富国強兵索

牛乳の普及に大活躍するのが、明治のマツジュンこと松本良順
松本良順はお医者さんなんですが、治療ではなく、初めて予防医学という考え方を提唱した。

健康増進には牛乳を飲むのが一番。
明治天皇に朝晩2回、牛乳を飲んでもらった。
当時一番人気の歌舞伎役者にも「牛乳は美味しいねえ」と言ってもらう

で、導入された哺乳瓶なるもの
なんと、母乳が出なくても牛乳を飲めば赤ちゃんは育つらしい。
それが証拠に、そうしている外国人はあんなにでかい。

確かに、畜生だと思っていた外国人も、
付き合ってみると良い奴も多いし
あいつらもきっと人間だ。

ということで、急速に普及していき
流行の飲み物となる
町のあちこちに「ミルクホール」なる喫茶店が出来ていくんですね。

マツジュンやったね

[昭和歌謡]31 あなたの心に

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

あなたの心に
中山千夏
作詞 中山千夏 作曲 都倉俊一
1969年

♪あなたの心に 風があるなら
そしてそれが春の風なら
私ひとりで 吹かれてみたいな
いつまでも いつまでも

作曲は都倉俊一
大学2年の時に作ったもの
最初のヒット曲です。
スター誕生では、かっこいい審査員の先生でしたね
あの阿久悠先生も、かっこ良さに憧れて
密かに、先週都倉先生が着た服を、次の週に来て出たりしてたみたいですよ。

中山千夏
幼い頃から「ちなっちゃん」とみんなに愛された
マルチタレントでしたね
参議院議員にもなっちゃいました。

すごく素朴で素直な歌詞です
こういう歌が大ヒットするというのは、良い時代です。

あなたの心に空があるなら
そしてそれが 青い空なら
私ひとりで のぼってみたいな
どこまでも どこまでも

ということで
私もでーこん流の歌詞を考えてみました。

あえて、今の時期だから歌いたいと。

「みんなの心に」
みんなの心に 風があるなら
そしてそれが 春の風なら
そのままいつまでも 吹いてて欲しいな
いつまでも いつまでも

[仏像の見分け方]四天王のそれぞれ

仏像の見分け方シリーズです。

前回、四天王について書きました
[仏像の見分け方]四天王の全般

今日は一人ずつ

持国天(東)
鎮護国家を司る
仏教により内政の安定をはかろうということ

となると、日本が仏教を取り入れた目的でもあるから
持国天が単独で祀られても良さそうなもんだけど
そういう例はない

見分け方がとても難しい
特に決まりごとがないんです。
剣や金剛杵(こんごうしょ)を持つことが多い
特に次の増長天との違いが明確でないんです

仏像を作った人の好き好きということになります。

増長天
増長(成長)したものという意味

日本では、常に四天王の一人になりますが
中国では、持国天とのペアということもあります。

持ち物は戟(げき)と金剛杵を持つことが多いというだけで
なんともバラバラ

広目天
様々な目、特殊な目を持つという意味
広くみんなを見てくれるということで
比較の問題ではありますが
前の二つ、持国天と増長天が動だとすると
広目天と多聞天は静だとも言えます。

これも決まりはなく
戟と羂索(けんじゃく)を持つことが多い

ただ
この広目天に関しては、見分けられる事があります。
巻物と筆を持つことがあるんです。

助かった
これなら分かります。
広い目で見たことをスケッチするんでしょうね。

これでどう戦うのかとの疑問もありますが
ペンは剣より強し、ってことでしょうか

多聞天
釈迦の説法をよく聞くもの
みんなの意見をよく聞くということにもなるんでしょう。

広目天が広く見て、多聞天が多く聞く
良いじゃないですか

これも見分けられるかも
宝塔と宝棒、または戟を持つことが多いってことで
戟だけ持たれちゃ諦めざるを得ませんが
けっこう宝塔持っています。
ちっちゃい家です。
セキセイインコぐらいだったら住めるかな。

多聞天はソロ活動する時には
毘沙門天と名前を変えるわけですが
そうなると、静というより
むちゃくちゃ動になりますね。
一気に攻撃的になります。

持ち物も変わってきます。

榎本武揚。後半。この命に意味があるのなら

昨日、榎本武揚の前半をお話ししました
榎本武揚。前半。日本で最初で最後の大統領
今日はその続き

降伏
新政府側で函館戦争の総指揮を取ったのが黒田清隆
榎本に再三降伏を促すがずっと拒否されていた

いよいよ完全に終わるという前に
黒田清隆の手紙への返信に
本を同封した。

「海律全書」国際海洋法の本
オランダ留学の時から肌身離さず持ち歩いていた

この貴重な本は、必ず新しい世の中で役に立つ

私は力及ばず腹を切るが
黒田さん、あなたにこの本を託したい。

かねてから、榎本の事を高くかっていたが
完全に、男に惚れた。

何としても腹を切らしちゃいかん

頭を丸坊主にし
新政府内の主要人物に懇願して回った。

どうしても榎本の首を取ると言うのなら
分かった、私の首も取ってからにしてくれ。

投獄
結局、命は取らず、投獄ということになった。
元々ないはずの命
投獄生活も、またそれはそれでよし。

気質は化学者なので、読みたい本は山ほどある

吉田松陰のように、投獄生活の中で大量の本を読んで
知識を蓄えつつ、というようなことは偉人話にありがちなんだけど
榎本武揚の場合、他とちょっと違う。

大量の手紙を家族に送っている。
自分が留学期間中に得た知識をベースに
大量の本から得た知識を肉付けしてまとめ
それを家族に伝授。
ジャンルは幅広いんだけど
硫酸の作り方みたいなものまである。

獄中から家族への手紙と言えば
幼い息子は元気にやっているか、的なことを想像するが
全く違う内容

何をしたかったのかというと
家族と共に心配で仕方ないのが
生きる術を失って困り果てているであろう幕臣たちのこと

新しい世の中で生きていける
新しい技術知識を伝授して
世の中に役立つ「仕事」をして欲しい。

榎本の家族は、手紙の内容をもとに
幕臣たちのもとを積極的に訪れ、
技術知識を伝えていく。

最終的にはそれを本にしていくんです。

釈放
2年後、恩赦で釈放されることになります。

その時、黒田清隆は、あの函館戦争の地、北海道の開拓責任者になっていた。

すぐさま、榎本を呼び寄せる。

今、北海道では様々な困難な課題がある
手伝って欲しい。

「元々ないはずの命
この命の使い途がもしあると言うのなら。」

化学者として役立てること
北海道に大量に眠っている鉱物資源の調査
気象観測

でも、黒田清隆は、それだけでは済ませなかった。
日本で最初で最後の大統領だった男です。
政治の表舞台に引っ張り出します。

もちろん、黒田以外は大反対
薩長土肥の世の中にあって、なぜ賊軍を

その時、一番重要課題であったのがロシアとの交渉

ではお聞きしますが
榎本以上にこの問題に適任者がいるというのなら
名前をあげていただきたい。

みんなは、言葉に窮します。
でも、本音で言うと「だから反対」なんです。
薩長土肥以外で優秀な人間は
優秀であるほど困るのです。

結局黒田に押しきられる形で
榎本がロシアとの交渉にあたることになります。

結果は大成功なのですが

複雑な心境なのがいわゆる抵抗勢力の人達。
でも、彼らの「本音」が少しずつ変わっていきます。

榎本にしてみれば
「元々ないはずの命
この命の使い途がもしあると言うのなら。」
としか思っていない。

賊軍の自分はあくまでもピンチヒッター、助っ人に過ぎない。
困難な課題があるならば、
自分を必要だと言ってもらえる範囲で精一杯のことをやり
あとはよろしく
と、さっと引く。

榎本の人間性が見えてきた。
大丈夫、怖くない。

となると、まあ便利にあれもこれも

駐清特命全権大使として北京に赴き、
伊藤博文が内閣総理大臣になると逓信大臣、
その後、農商務大臣、文部大臣、外務大臣

全て、あとはよろしく。

政治以外
そこまで政治で多忙を極めつつ
それ以外でも名を刻みます

今回ウォーキングで出会った二つの碑も、政治以外の分野
ひとつは北辰社牧場跡

飯田橋というから東京のど真ん中
ここに牧場を作ったのが榎本武揚

東京に牧場という話
これだけで面白い話なので
機会がありましたら別で話しますね。

もうひとつは、東京農業大学開校の地
東京農業大学の初代学長は榎本武揚なんです。

牧場を作ったくらいですから
農業にも造詣が深い。
もちろん、農業だけじゃないですけどね。