[吉岡宿の奇跡]1 吉岡宿を救いたい

磯田道史先生の「日本史の内幕」を読んでいると
詳しくは「無私の日本人」を読んでくださいという表現が何ヵ所かある
以前自分の書いた本のコマーシャル
良いんじゃないでしょうか
たまたま図書館にあったので、借りて読みました。

読んでビックリ
小説じゃん

磯田先生は小説もかけるのか
しかもぐいぐい引き込まれる、超一流の小説

3つの話が納められているんだけど
穀田屋十三郎は映画「殿、利息でござる」という映画にもなった
殿の役で、羽生結弦が出て、絶賛されたらしい。

「日本史の内幕」では、映画製作の時の話が出ていて
自分達で作っておきながら、試写会を見て、スタッフ達が泣いちゃった、とある

分かる
これはすごい、ものすごい
私も涙が溢れ出た

何がすごいって、ノンフィクションだということ
事実に基づいている。
磯田先生は古文書オタク
ある日この古文書を読んだ
読んでいて、磯田先生自体涙が溢れたという

穀田屋十三郎
半農半商の一百姓、穀田屋十三郎
衰退の一途を辿る吉岡宿をなんとか救いたい
菅原屋篤平治という知恵者と話をするうちに
ひとつの具体的なプランに行き着く

とても無理でしょうという案だけど
ひとりずつ心を動かし、仲間が増えていき、とうとう実現してしまう。

どういうプランだったのか
まずは、その背景から説明していきましょう。

吉岡宿
吉岡宿は仙台藩の中の奥州街道の宿場町
他の宿場は仙台藩から支援してもらえるんだけど
吉岡宿は藩の直轄地でないために支援がない

にもかかわらず伝馬役という負担は他と同じくらい課せられる
とってもアンバランス
どんどん宿場全体が貧乏になっていって
宿場を離れるものが出てきた。

そうなると悪循環で、一人辺りの負担が増えていく

なんとか食い止めねば。

穀田屋十三郎はずっとその事ばかり考えていた。
宿場の中で最も知恵の回る、菅原屋篤平治に相談した。
明和3(1766)年の事だった。

実は私にはある考えがある
それで宿は救われる
ただ、そのためには先立つものがいる。
金じゃ
どうにもならん。

いくらあれば、この宿を救えるんじゃ

14500両

途方もない金額だったが
その事より、方法があるのだということが衝撃だった。

それがし、この身に変えても何とかしたい
その手立てとやらを教えて下され

その金子をお殿様に差し上げ、
年々ご利息をいただきたいと願い上げるのじゃ

吉岡宿は、このままでは上からの重い課役で押し潰されてしまう
逆に討って出て、お上に金を貸し、
金を取られる側から取る側に回ろう
仙台藩62万石を相手に金貸しをしようという

得られた利息で、伝馬役を勤める屋敷ごとに全戸配布する
宿場の戸数が減ることさえ食いとどめられれば悪循環にならない

お上も金がない
江戸への参勤交代の前など、喉から手が出るほど金が欲しいはず

この思いは、昨日今日の話ではない
ずっと前から考えておったが
何分にも先立つものがない

そなたに尋ねられてわしも覚悟が決まった
出来ぬと思うてしまうから出来ぬのじゃ
生涯のうちに出来ねば、生を変えてでもやり抜きたい。

腹の底から震えが走った
同じ思いを持った人がいた
難しいか簡単かなんて問題じゃない
ただ、その事が嬉しかった
やろう。やりたい。やらねばならぬ。

普通に考えると実現性なんてほぼゼロに等しいけど
このふたりの思いは、
ひとりずつ周りに伝染し、心を動かし
広がっていって
ついには実現してしまうのです。

シリーズの次回から
その苦難の道のりを追っていくことにします。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名僧]江戸時代の仏教。檀家制度と本末制度

名僧シリーズは江戸時代に入って数人紹介しました。

江戸時代って260年もあるので
色んなすごいお坊さんが現れて
こんな新しい考え方を広めて、となりそうだけど
どうも勝手が違う。

鎌倉時代はあんなに色んな名僧が出てきたのにね

宗派にしたって江戸時代に増えたのは前回紹介した黄檗宗のみ

理由があるんです。

檀家制度と本末制度
徳川家康には、三大危機というものがあって
そのうちのひとつが初期の頃の一向一揆との対決
浄土真宗本願寺派の巨大勢力に散々苦しめられた。
織田信長はもっと大変
それも見ているから、宗教が団結したときの手強さを身に染みて知っている

コントロールしよう

仏教は巨大すぎるので潰すのは無理
自分も浄土宗
「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)という浄土宗の言葉を馬印にしたほど。

キリスト教なるものを封じ込めるために使えないか

キリスト教は、あまりに未知過ぎて、徳川政権にとって、プラスなのかマイナスなのかすら分からない。
ひょっとすると巨大な敵になるかもしれないので今のうちに封じ込めよう。

徳川幕府のやり方ってとても面白い
キリスト教の弾圧はとても強固に徹底的にやったけど
逆に言うと高圧的なやり方はこれくらい

何かを守らせようとすると、交換条件を出したりする。

仏教の統制については檀家制度というのを持ち出した。

これから言うことは守ってね
その代わり、全国民仏教信者にしますから

はい?
幕府が勝手に一般庶民全部を仏教信者ってそんな無茶苦茶な。

今まで、自分の宗派の信者を広げるためにどれだけ苦労してきたか

教義を書いたものも、最初は漢文だったのを日本語で
できるだけひらがなを多くして読みやすくし
さらに、絵や彫り物で視覚的に表現し
念仏も「南無阿弥陀仏」だけで良くしたり
そういう布教のための努力って、宗教の根幹的部分

今、日本の仏教は13宗派
どれにするか、家の単位で決めてくださいね
一旦決めたら、末代までその宗派ですからね

届出してくださいよ
宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)に書きますからね

要するに戸籍で、その戸籍にどこどこの宗派と書かなきゃいけない。
無宗教は許されない。
何か大きな事をしようとすると今で言う戸籍謄本が必要
その戸籍謄本は市役所が発行するのではなく、お寺が発行
なければ、関所も通れないし、結婚も引越も奉公に出ることもできない。

宗教って教義があってそれに賛同する人が個人別に信仰するはず

庶民からするとそんなバカな
なんですが
お寺の方がこういう提案を受けたとき、拒否するかってことです。
何の努力もせず、未来永劫檀家からの安定的収入が確保でき
絶大な権限も得られる

よろしくお願いします
でしょう

その裏にあるのは、布教の禁止
管理上ややこしいから、宗旨変えなんてさせる努力はしちゃだめよ
そもそも意味無いですけどね
権兵衛さんに、南無阿弥陀仏が良いですよ、って話したところで
何をおっしゃってます?うちは代々南無妙法蓮華経ですよ。で、しまい

仏教全体がどっぷりぬるま湯に浸かる訳です。

本末制度というので、宗派別の本山となる寺を決めさせ
ピラミッド型でコントロールする

本質論からするととてもおかしいですが
難しいところですね

世界の歴史で現在まで行われている
宗教同士の争いみたいなのは一切無い
みんなお友達

ただ、その秩序を守るために
異質な宗教キリスト教は弾圧さぜるを得なかったし
鎖国は必要だった訳です。

そんな中でも
その仕組みに違和感を持ち
安定感すなわち閉塞感を打破しようという人はいるんです。

どうするか

仏教は仏教として置いといて
になるんです。

違うものを組み合わせる
ひとつには儒学です

ここで神社が出て来ないのが残念なところですが
儒学なんですね
敢えて儒教とは言わない

そもそも宗教という言葉自体江戸時代にはなく
誰も宗教というものを意識したことがないので
儒学でも儒教でも良いわけですが

言いたいのは仏教か〇〇教かという選択肢ではなく
仏教にプラスしてやっても大丈夫という「学問」というジャンルととらえる

朱子学を中心に、儒学の各派閥がああでもないこうでもないと
江戸時代260年の中でバトルを繰り広げます。

この儒学(儒教)なる存在
なんで、江戸時代には、仏教があるのに何かというと儒学なんだろうと不思議に思っていました。
大きなテーマなので、名僧シリーズが終わったら取り組んでみたいテーマです。

ただ、儒学はどちらかというと武士の中での話

もっと一般市民は?

民間でも活力のある信仰がいくつか。
その一例が、ブログの中で何度も取り上げている、富士講だったり
あるいは、ほぼ60年おきに大爆発してヒットするおかげ参りだったり
大山信仰だったり
太郎稲荷等の流行り神だったりします。

次回からまた人別の名僧シリーズに戻りますね

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]39 弘文天皇。明治になってから認められた天皇

超独裁の天智天皇が死の床に付きました。

さあ、次は。

周囲の見方は
弟の大海人皇子(後の天武天皇)が良いなあ
でも、天智天皇は息子の大友皇子(後の弘文天皇)に譲りたいんだろうなあ。

そんな天智天皇が天武天皇を呼んだ
私はもう長くない。
あとをお前にと思っているんだけど、どうだろう。

天智天皇は政敵をことごとく死に追いやって来た。
ここは、どう答えれば良いのか

罠の可能性がある
はい、と言えば
あとを狙っている危ない奴であり、息子の敵なので、
今まで散々そうしてきたように、殺されるんじゃなかろうか

私はそのような器ではございませんし、
考えたこともございません。
ここは、皇后様にお願いするのはいかがでしょう。
そして、大友皇子様に皇太子になっていただき
皇后様のサポートをお願いするのがよろしいかと。
私は、出家して、吉野の山中で暮らしとうございます。

完璧な答。これで身の安全は確保されるでしょう。

実際に奥さんの鸕野讚良(うののさらら)のちの持統天皇と一緒に吉野に引っ込みます。

そしてそのまま、天智天皇は亡くなります。

結局、次は大友皇子ということになります。

海外情勢がまだ危険をはらんでいます。
唐は日本への侵攻を後回しにし
裏切り者の新羅をまずぶっつぶす。
そのためには日本とも一旦手を結びましょう。

早く準備して、新羅へ兵を送るように、と

大友皇子は再三の要請に呼応
兵を準備していきます。

この噂を天武天皇は吉野の山中で聞く

えっ
大友皇子が兵を挙げたか
いよいよ、我々を殺しに来るのだな

完全に勘違い

殺られる前に殺るのみ

天武天皇が兵を挙げます

古代における最大の内戦
壬申の乱(じんしんのらん)の勃発です。

結果として、天武天皇側が勝利
大友皇子は追い詰められて、自殺します。

この壬申の乱の詳しいことは、
次回、天武天皇の時にお話ししましょう。

即位
今まで、微妙な表現をしてきました。
天武天皇は最初から分かりやすくするために
大海人皇子ではなく天武天皇と表現してきたのに
大友皇子は最後まで弘文天皇と表現しませんでした。

意図的です。

大友皇子が即位したかどうかが分からなかったんです。
天智天皇が後継者を大友皇子に指名したことは間違いないのに
天皇として即位してから壬申の乱で負けたのか
天皇として即位する前に壬申の乱で負けたのか

前の天皇が亡くなっても次の天皇はすぐに即位はしません。
殯(もがり)という喪にふくする期間を経たあとに即位します。

その期間がどれだけかは明確に決まっているわけではありません。

さらに、天智天皇のように、前の天皇が亡くなってもかなり長く即位しないケースがある

でも、そんな重要なこと
どっかに書いてあるでしょうに、と思うでしょう。

この場合、そのどっかがくせ者

日本書紀です。

日本書紀が天武天皇以前の歴史においてはほとんど唯一に近いほどの意味を持ちます。

その日本書紀が、大友皇子が即位したかどうかについて「触れていない」のです。

日本書紀って誰が指示して作成したかというと、天武天皇です。

なぜ日本書紀が作られたか
その目的

壬申の乱の一方の当事者であり勝利した側の者が作成させた歴史書
普通に考えると
自分の起こした壬申の乱の正当性を示すために
多大な労力をかけて歴史書を作った。

そして、最後の最後に書かれている壬申の乱
天皇として即位してから壬申の乱で負けたなら
天武天皇は天皇の座を略奪した略奪者になる

ということで、江戸時代まで
天智天皇の次は天武天皇だったんです。

でも、明治維新になって、天皇を中心にした新たな世の中がやって来た

さあ、天皇の系譜を明確に示す必要があります。
ずいぶん長く検討が重ねられ
政府の公式見解として明治3年に発表されました。

大友皇子は弘文天皇という名で、第39代天皇
はい、認定。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[昭和歌謡]103 東京ららばい

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

東京ららばい
中原理恵
作詞・松本隆 作曲・筒美京平
1978年

♪午前三時の東京ベイ(湾)は
港の店のライトで揺れる

東京
東京ってこういうイメージなんでしょうね
夜のネオンピカピカ
人間関係的には情が薄く、殺伐とした感じ
特に歌謡曲で東京が出てくるとだいたいそうですね
東京砂漠なんてタイトルもありました。

私も5年前まではそう思っていたなあ

確かに比較論でいうと否定はしません
元々関西の片田舎出身で、福島県の郡山に住んだこともあるので
比較すると地方の人の方が情が厚い

東京には人間関係のめんどくさいのが嫌だって人はいっぱい住んでいます。

ただ
比較論って意味があるのかなあと思う

5年前から江戸が好きになって、江戸を感じつつ東京中くまなく歩いている
こんな魅力的な土地、そうそう無いと思う。
もっと昼間の東京を歩いてちょうだい、と思う
緑の多さにびっくりぽん

雷門

皇居

新宿御苑

小石川後楽園

上野不忍池

飛鳥山公園

結局自分にとってその土地をどう楽しむか
一般的イメージなんてものは
あっそう
の一言で片付ければ良い

そんなことよりさあ
って楽しいことに目を向ければ良い

♪東京ららばい
♪ねんねんころり寝転んで眠りましょうか

はい、明日も朝から超ハッピー

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)