[天皇]39 弘文天皇。明治になってから認められた天皇

超独裁の天智天皇が死の床に付きました。

さあ、次は。

周囲の見方は
弟の大海人皇子(後の天武天皇)が良いなあ
でも、天智天皇は息子の大友皇子(後の弘文天皇)に譲りたいんだろうなあ。

そんな天智天皇が天武天皇を呼んだ
私はもう長くない。
あとをお前にと思っているんだけど、どうだろう。

天智天皇は政敵をことごとく死に追いやって来た。
ここは、どう答えれば良いのか

罠の可能性がある
はい、と言えば
あとを狙っている危ない奴であり、息子の敵なので、
今まで散々そうしてきたように、殺されるんじゃなかろうか

私はそのような器ではございませんし、
考えたこともございません。
ここは、皇后様にお願いするのはいかがでしょう。
そして、大友皇子様に皇太子になっていただき
皇后様のサポートをお願いするのがよろしいかと。
私は、出家して、吉野の山中で暮らしとうございます。

完璧な答。これで身の安全は確保されるでしょう。

実際に奥さんの鸕野讚良(うののさらら)のちの持統天皇と一緒に吉野に引っ込みます。

そしてそのまま、天智天皇は亡くなります。

結局、次は大友皇子ということになります。

海外情勢がまだ危険をはらんでいます。
唐は日本への侵攻を後回しにし
裏切り者の新羅をまずぶっつぶす。
そのためには日本とも一旦手を結びましょう。

早く準備して、新羅へ兵を送るように、と

大友皇子は再三の要請に呼応
兵を準備していきます。

この噂を天武天皇は吉野の山中で聞く

えっ
大友皇子が兵を挙げたか
いよいよ、我々を殺しに来るのだな

完全に勘違い

殺られる前に殺るのみ

天武天皇が兵を挙げます

古代における最大の内戦
壬申の乱(じんしんのらん)の勃発です。

結果として、天武天皇側が勝利
大友皇子は追い詰められて、自殺します。

この壬申の乱の詳しいことは、
次回、天武天皇の時にお話ししましょう。

即位
今まで、微妙な表現をしてきました。
天武天皇は最初から分かりやすくするために
大海人皇子ではなく天武天皇と表現してきたのに
大友皇子は最後まで弘文天皇と表現しませんでした。

意図的です。

大友皇子が即位したかどうかが分からなかったんです。
天智天皇が後継者を大友皇子に指名したことは間違いないのに
天皇として即位してから壬申の乱で負けたのか
天皇として即位する前に壬申の乱で負けたのか

前の天皇が亡くなっても次の天皇はすぐに即位はしません。
殯(もがり)という喪にふくする期間を経たあとに即位します。

その期間がどれだけかは明確に決まっているわけではありません。

さらに、天智天皇のように、前の天皇が亡くなってもかなり長く即位しないケースがある

でも、そんな重要なこと
どっかに書いてあるでしょうに、と思うでしょう。

この場合、そのどっかがくせ者

日本書紀です。

日本書紀が天武天皇以前の歴史においてはほとんど唯一に近いほどの意味を持ちます。

その日本書紀が、大友皇子が即位したかどうかについて「触れていない」のです。

日本書紀って誰が指示して作成したかというと、天武天皇です。

なぜ日本書紀が作られたか
その目的

壬申の乱の一方の当事者であり勝利した側の者が作成させた歴史書
普通に考えると
自分の起こした壬申の乱の正当性を示すために
多大な労力をかけて歴史書を作った。

そして、最後の最後に書かれている壬申の乱
天皇として即位してから壬申の乱で負けたなら
天武天皇は天皇の座を略奪した略奪者になる

ということで、江戸時代まで
天智天皇の次は天武天皇だったんです。

でも、明治維新になって、天皇を中心にした新たな世の中がやって来た

さあ、天皇の系譜を明確に示す必要があります。
ずいぶん長く検討が重ねられ
政府の公式見解として明治3年に発表されました。

大友皇子は弘文天皇という名で、第39代天皇
はい、認定。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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