[昭和歌謡]124 チャコの海岸物語

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

チャコの海岸物語
サザンオールスターズ
作詞・作曲、桑田佳祐
1982年

♪抱きしめたい
海岸で若い二人が恋をする物語
目を閉じて胸を開いて ハダカで踊るジルバ

サザンオールスターズ
まさかまさか
この人たちが、ここまで長く売れ続けるなんて

最初の
♪今何時? そうねだいたいね
から、もはや40年以上
桑田さんたちもみんな60歳以上

昔数曲売れて、その代表曲でやっていける人はいっぱいいる
勿論そういう代表曲に恵まれた訳だから、それで良いけれど
サザンの凄さはどうだろう

ここまで売れ続けると
もう国民的歌手、って言って良いでしょうね

私としても常に気になるミュージシャンです。
私は、どちらかと言うと、曲より詞の方が好きで
詞が良いと、とことん好きになっちゃうんだけど
このサザン、ないしは桑田さん、って人はどういう才能なんでございましょう

おそらく多くの人が
曲と詞を調和させるべく
詞を何度も何度も推敲する

ところが
えっ、ほんま?
それで良いん?
って歌詞が飛び出す。

♪今何時? そうねだいたいね
なんて詞は
いわゆる作詞家には
ひっくり返ったって書けない

曲作りの才能がダントツで
最初の頃は、桑田さん自身、詞は曲の添えものぐらいにしか思ってなかったらしい

心地良いフレーズがポンポン出てきて
それ何なの?どういうシチュエーションなの?なんて事は考えない詞作り

それが許されるんだったら、どんなに楽か、と思いつつも
その独特の作り方でどんどんヒットしていくと
桑田さんの中でも、詞というものが昇華されていったんじゃないかと思う

大ヒットしたtunamiは
歌詞で大ヒットしたんじゃないかと思う

♪風に戸惑う弱気な僕
通りすがるあの日の幻影
本当は見た目以上
涙もろい過去がある

止めど流る清か水よ
消せど燃ゆる魔性の火よ
あんなに好きな女性に
出逢う夏は二度とない

そしてサビ

見つめ合うと素直にお喋り出来ない
津波のような侘しさに
I know…怯えてる Hoo
めぐり逢えた瞬間から魔法が解けない
鏡のような夢の中で
思い出はいつの日も雨

前後の詞の、言葉の選び方からして
ここで急に「お喋り」を出すか?
語り合えない、だったら分かるけど
意識してここで、違和感のあるフレーズでガツンと心捕まれる

そして仕上げが「鏡のような夢の中」
これはもう、一流の詩人でしょう

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

さすがは加賀百万石

[明治] 西郷従道。お兄さんのために。
のウォーキングの続きです。

次はどこに行こうかな

以前読んだ東京の庭園の本で、唯一行ってなかった場所
確かあれは渋谷だった

そこで庭園を堪能してから、
ケルネル田んぼへ向かうとするか

鍋島松濤(なべしましょうとう)公園

江戸時代は、紀州の下屋敷
明治になると、佐賀藩主の鍋島家が、紀伊徳川家から払い下げを受け、
明治9年に茶園を開いて「松濤(しょうとう)」の銘で茶を売り出しました。
蘭癖(らんぺき)大名、即ち西洋かぶれの鍋島です。

松濤とはお湯が沸騰するときの音らしい
シューーー、ショウトーショートー
なかなか個性的なお湯です。

水車と池のある落ち着いた公園が、渋谷からすぐの高級住宅地にあるんですね



食事をしたあと、ケルネル田んぼへ向かいます。
食事は、キッチン南海でしたんですね
キッチン南海・駒場店のオヤジさんの素晴らしい生き方

ケルネル田んぼ
こちらは文明開花の本から
明治になって色んな分野の文明開花が行われましたが農業分野もしかり

当初はイギリスから講師を呼んでいましたが
ドイツの方が良いかも、ってことでドイツにシフト
その内の一人がオスカル・ケルネル
ルルルのル

この地で試験田を作り、肥料とかを研究
駒場農学校が作られ、今の東京大学農学部に繋がっていく

今もこの場所で意思が受け継がれ、高校生たちが、ケルネル田んぼで稲を育てています。


駒場公園
目黒区と言えば家光
ここも家光が鷹狩りに訪れた場所

旧前田邸とあるぞ
期待できそうだ

ええっと
あらま。前田って、加賀藩前田家のあの前田か
失礼いたしました。
下調べが全くなってなかったですね

いずれにしても超ラッキー
このようなところで、加賀百万石に出会えるとは。
良く良く考えると、東大本郷キャンパスも加賀藩ですから。

まずは和館




ピカピカーッ

その庭園


洋館がすごかった。
洋館も色々行きましたが
迎賓館は別格として、それ以外で言うと、一番すごいかも知れない










まだあるの?もう良いよ、と言いたくなるほどに、超豪華な部屋があるわあるわ

千手観音をおもてなしするときに使われるスプーンセット

いやあ、さすがに加賀百万石です。
明治になってからもまだすごかったんですね

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治] 西郷従道。お兄さんのために。

明治シリーズ、兼元老シリーズ
元老8人のうち、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、が終わりましたので
順番として、西郷従道。

あっ、いかん
急いで、あそこに行かなきゃ。

西郷従道
つぐみち、と読んだり、じゅうどう、と読んだりします。

西郷隆盛の弟です。
従って、薩摩出身

明治維新への貢献という意味では、西郷隆盛や大久保利通と小さな頃から一緒に行動し
共に成し遂げた仲間

西郷隆盛や大久保利通が亡くなったあとは、従道が意志を継いでもおかしくはない

征韓論では、西郷隆盛と大久保利通が真っ二つ
従道は、反対派、即ち、大久保利通側に賛成します。
勿論、兄弟仲が悪かった訳ではありません。
純粋に、自分の考えとして、征韓論には賛成できなかった。

その後、陸軍として山県有朋の下で活躍します。

その後、兄隆盛が、西南戦争で政府に反旗を翻す。

政府はそのままにはしておけないので制圧を決定

制圧には、陸軍が向かいます。

山県有朋は、ナンバーツーである西郷従道に

私が向かう。
あとのことは全て任せるから、東京の陸軍を頼む

配慮です。
一緒に来いとは、言える訳ないです。

その後、従道は、海軍に転じます。
内閣成立後は、10年以上に腸って、断続的に海軍大臣を勤め
元老の一員としても活躍します。
海軍では、日清戦争、日露戦争に勝てる海軍を作り上げた。

ただ、海軍大臣以上の事をしようとしなかった。

従道さえ承諾すれば、首相になる機会はありました。

でも断った。

その事は良いじゃないか、と誰に言われても
本人の中では、逆賊、西郷隆盛の弟だった。
兄を殺してしまった、という負い目もあった。

性格は、兄と一緒。
細かいことは気にせず、度胸があって決断力がある
どーんと部下に任せるタイプ

海軍では、腹心の山本権兵衛を育てています。

西郷従道邸跡
冒頭に、あそこに行かなきゃ、と言いました。
3年前の2017/12/30。
西郷従道邸跡に行きました。
祝!目黒区でコンプリート

ただ、あまりに年末過ぎて、従道の庭園が開いていなかった。
いつか絶対と思っておりました。

従道の事を書くなら、やっぱり行ってこなきゃ

(8/10の事です)

目黒のその広大な土地は、江戸時代には
豊後岡藩中川家(大分県竹田市)の目黒抱屋敷だった。
抱屋敷というのは、幕府から拝領した屋敷ではなく、自分で買い取った屋敷。

岡藩中川家は、関が原の戦いから等東軍。
江戸時代の歴史の中で、一度も移封になっていません。

明治維新になり国元に引き上げるにあたり、高畠氏に譲ります。
ただ、高畠氏も広大なこの土地を維持出来ず、売りに出した。

その情報は政府内で流れ、閣僚の
大隈重信、井上馨、山県有朋が興味を示した。
ただ、いずれも、大きく値切ったため、合意には至らなかった。

西郷従道はこの地に足を運び非常に気に入った。
このような広大・静寂・風趣に富んだ邸宅を貴方が手離されるには
それなりの事情があるのだろうが情に於ては忍びないことでしょう。
僅かではあるがどうかこの金で邸園と別離の盃をとり交わして下さい。

と、売値千二百円に、更に百円を添えて購入
この心配りに感激した高畠氏は、山林、庭木、石材はもとより農地で飼育していた豚までの一切を
従道に委ねた

その後、近隣農民から農地や山林の買上げを請われ、西郷家の所有地は最大14万坪にまで広がった。

本当は、この広大な土地
自分のために購入したものではありませんでした。

ずっと、病気がちだった、兄隆盛の静養の地として購入
プレゼントするつもりだったんです。
結局は叶いませんでしたが。

あまりに広いので、庭園だった場所は庭園としたが
それ以外はそのままにし
他は、農地として使った。
牛を飼ったり鶏を飼ったり
トマトを植えたり
まるまる農業で、とても華族の屋敷とは思えない、と回想されている

その庭園の復元されたものがこちら



日本庭園に芝生を使ったのは、山県有朋が最初
影響を受けてます。
雰囲気は山県有朋の別邸、椿山荘に似ています。

本当はとても素敵な洋館も建っていました。
壊すのは勿体ないので
愛知県の明治村に移築されています
以下、ネットから

横が菅刈公園として整備されています。

急斜面を上がった上は西郷山公園として整備されています。
このあたりが西郷山と呼ばれていたからです。





このあと、8/10のウォーキングはさらに続きます。
明日、続きをお離ししますね
(キッチン南海は、先に話しちゃいましたが)

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]59 宇多天皇。佐々木家のご先祖様

天皇シリーズ

宇多天皇
887~897年

息子を全て、臣籍降下させ
おかしな欲は持っていませんよ、と示していた、光孝天皇
でも、いよいよ自分の命が危ないとなってその内一人を皇籍に戻させた
藤原基経が一番、まあこの人ならと思っているんじゃないか、という人物
源定省(みなもとのさだみ)という名前にしていた人物
宇多天皇です。

基経が外戚って訳じゃない
仕方なく

宇多天皇からすると、臣籍降下していたのに戻してもらえたわけで
基経には恩がある
最大限に尊重しよう。
ただ、外戚じゃないというのは大きい

「宜しく阿衡(あこう)の任を以て卿の任となすべし」
と基経に実質関白職を命じたんだけど
この阿衡という言葉にいちゃもんをつけた。

その弱味のある基経側からの先制パンチ
はっきり言って言いがかりとしか思えないんだけど
ストライキとかされて、宇多天皇が完全屈服
阿衡事件と言います。

基経としてみては、最初が肝心ということなんでしょう。

逆に屈服させられた宇多天皇には、今に見ておれ、という気持ちが芽生えます。

逆襲
意外に早く、逆襲の時がやって来ます。

そこまでして、思いのままの流れを作った基経が3年後に亡くなるのです。

その子供はその時点で、まだ21歳

よっしゃ今だ!

宇多天皇が気に入っている人材を思い切り引き上げます。

出ました
菅原道真です。

天神様です。
このたびは、ぬさもとりあえず手向山 もみじのにしき かみのまにまに

菅原道真を使いつつ、自らも積極的に政治に関与して
さまざまな政策を打ち出します。

行政改革として、大幅な官司の統廃合や官員の削減
昇殿制と言って、内裏で天皇の周りで諸役を勤める殿上人(でんじょうびと)を明確に制度化
地方政治としては、受領(ずりょう)と言って、今でいう県知事みたいな役人を明確に制度化
そして外交面では有名な、遣唐使の廃止です。
菅原道真が助言。
この頃、唐がかなり弱体化
莫大な費用と、危険を侵して、唐に渡っても
もはや得られるものは何もない

ここから、日本独自の文化が大きく花開いていくことになります。

元号が寛平(かんぴょう)なので、後に「寛平の治」と言われます。
寛平(かんぴょう)ちゃんです。

このまま、宇多天皇が後ろ楯になりつつ、菅原道真が諸政策を進めれば、ずいぶん変わったでしょうね

ところが宇多天皇、息子が13歳になって元服すると、
まだ若いのに、引退して、譲位してしまうのです。

寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)という
天皇としての心構えを書いたものを、息子に残して去ります。
さらに、くれぐれも菅原道真を引き続き重用するように、と言い残して。

それ以外には、天皇が国を治めるにおいて注意すべき点
なかなか良くできた内容で
それ以降も天皇家では代々この教えが大切にされ、
後々まで守られることになります

それまで、藤原時平を押さえ込んでいたわけではない。
時平と菅原道真をほぼ同じスピードで昇進させていった。
宇多天皇のときは、時平がまだ若かったこと、菅原道真が極めて頭が良かったこと
宇多天皇自身が積極的に政治に関与したことがあって
うまくバランスが取れていた。

いくら、寛平御遺誡を残したとは言っても、息子(醍醐天皇)はまだ13歳
このバランスをうまく保てる筈がありません
悲劇に繋がる訳ですが、その辺は次回の醍醐天皇の方に譲りましょう。

佐々木
そのあとの時代で、どんどん藤原氏が強くなっていって、摂政関白の時代が続くことになります。
ただ、その裏では、脈々とさらに次の時代の芽が息づいていきます。

そのあたりを次の次の天皇の辺りで話していくことにしますが
平氏と源氏です。
武士の時代です。

桓武天皇の時にお話ししたように、
天皇家を途絶えさせないように、男の子をいっぱい生ませるのが天皇の大きな仕事
桓武天皇をはじめとして、頑張り屋さんの天皇には何十人と子供が出来る
世継ぎは皇太子となり、皇族なので姓は持ちませんが
それ以外は、姓を与え、家来の方の立場に回りなさい

その姓を平と源のいずれかに統一していく
平さんと源さんはバンバン増えます。
一大勢力となっていく。
先程お話した地方政治の長、受領となったりしていく。

ひょっとすると桓武天皇は
藤原氏に対抗できる勢力として
平や源として作り上げたかったのではないかと思います。

平や源は複数の息子を持ち、ねずみ算式に増えていく。
そうすると自分達も訳が分からなくなるので
天皇からもらった正式な姓、平や源とは別の通称で呼び合うようになる

親戚であったときに、大阪のおばちゃん、と呼ぶようなそんな感じ
地名に由来したり、地形や位置関係や職業に由来したりします。

村の中で中心地の田んぼを持っていれば田中さん、って感じ

正式な方を「姓」通称を「名字」と言います。
明治になって統一されるまでは両方持っていたんですね。

姓の方は、どの天皇の息子から始まったかによって、
桓武平氏、清和源氏、というような言い方をします。

宇多天皇も頑張り屋さんだったので、宇多源氏はいっぱいいます。
宇多源氏の中で、今の滋賀県の近江に渡った者が
佐々木という名字を持ちます。

田中等は、田んぼの位置関係なので全国津々浦々で
同時発生的に生まれますが

わが佐々木(でーこんの本名)は
珍しく、ただここだけ。
近江の沙沙貴(ささき)神社の近くだったという名字のみに集約され
そこからどんどん全国に散らばっていくのです。

即ち、佐々木ははっきりしています。
ご先祖様は、宇多天皇。

おお、有り難き幸せ

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)