中山道、板橋宿で歴史三昧

板橋ウォーキング前半はこちら
新選組の終焉の地から

その続きです
地図
東光寺
板橋宿に行く前に東光寺

ここには板橋区有形文化財に指定されている
青面金剛(せいしょくこんごう)の見事な彫刻が施されている庚申塔(こうしんとう)があります。

庚申塔って何かについては、こっちを見てね
庚申塚ってなんだろか

そして、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の供養塔
関が原の戦いって西軍は石田三成しか思い浮かばないけど
実質の大将は宇喜多秀家

負けちゃったので
とても長期間のつらい歴史
なぜここに供養塔があるのかは、語るも涙
長くなりすぎるので、今回はパスし、改めてお話しします。

板橋宿
やってまいりました。
中山道の第一の宿場、板橋宿です。

品川宿程ではないですが
ある程度、宿場の雰囲気を出してくれています。
板橋宿今昔道しるべ
公園の中に板橋宿の説明
良いじゃないですか

最初に観明寺に立ち寄り
またも出ました庚申塔
とっても可愛い六地蔵がお出迎え

さあ、本陣跡探し

品川宿でも川崎宿でもそうだったけど
本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡だと
探して回るのがとても楽しい。

最初は、平尾宿の脇本陣ね
品川宿のように
板橋宿も、3つに分かれる
平尾宿、中宿、上宿

あれ?
ない

いきなりつまづいちゃった。

まあいいや
観光センター

宿場を楽しむなら
観光センターに早い段階で立ち寄るべし

そこで情報を仕入れてから回る方が格段に楽しい。

すみません
板橋宿を見て回りたいと思いまして。

はい、こういった地図が用意してございまして

あっ、一緒です。
同じのをダウンロードして、
この板橋コースを一番から順番に来たんです。

一押ししている地図をもう使ってくれている最中というのは
スタッフさんとしても嬉しかったんじゃないでしょうか

この平尾宿脇本陣跡がどうしても見つからなくて

近くですのでご案内しましょうか

なんと、外まで一緒に付いてきてくれる
これは、いくらなんでも初めてです。
おじいちゃんなんですけどね。

あっ、ありました。

この豊田さん、その後もずっとこのあたりの地主でしてね
この目の前のマンションのオーナーで最上階に住んでます。

こういった情報は、絶対にどこにも書いていないから
超ラッキーです。

この公園のこの看板は私たちが2ヶ月に一回ずつ付け替えるんです。

この絵は誰の絵なんですか

こっちが歌川広重で、こっちが渓斎英泉(けいさいえいせん)
見てください
どちらも中山道とは書いてないでしょう
木曽街道

えっ
でもこのパンフレットには、新井白石が、中山道か中仙道かで中山道に統一するように指示したと

そうなんです。
公には中山道
でも中山道という呼び方が浸透していったのはずいぶん先で
それまでは木曽街道だった

一緒に観光センターに戻ってからも
付きっきりで、とても詳しく教えてくれた。

私が、それは面白いといちいち喜ぶので
乗ってきたのもあるんじゃないかな。

和宮
中山道と言えば、和宮
天皇の妹だった和宮が公武合体で、徳川将軍に嫁ぐ。

前代未聞の極致(きょくち)なので
民衆がパニックにならないよう
東海道ではなく、中山道を選択

どういう日程で通ったか
何に乗ったか
板橋宿ではどこに泊まったのか
その脇本陣ではどういう準備をしたのか
そのあと、御三卿の清水家に入った。それは何故か

細かく解説してくれた

和宮以外でも
大きく板橋の写真が掲示されているんだけど、その解説
一橋慶喜の維新後の板橋での行動
遊女のいた建物の門構えが立派なので、保存するためにどうしたか
荷物を多く運びたい荷主と、馬を守りたい馬主のバトル
東光寺と観明寺の庚申塔の違い
昨日書いた、近藤勇の墓や、計画中の加賀記念公園の情報

面白い話だらけ

本やネットになかなか書いていない、伝承情報

面白いなあ
いやあ、面白い

本陣跡
本陣跡と脇本陣跡がまあ分かりにくい
スーパーがあって、という観光センターで聞いた情報がなければ
分からなかったかもしれない。
それでも、脇本陣跡の方がどうしても分からなくて
お惣菜屋さんに聞いてやっと

あった!
ここか。
ここに和宮が泊まったんだ。
目に浮かぶのは、大河ドラマ篤姫の時に和宮だった堀北真紀
可愛かったなあ

板橋
地名の元になった「板橋」という橋
解説をじっくり読んでると
地元のおじいさんが声をかけてきた

遠くから来られたんですか

はい
板橋宿を巡っているんです。

ここの橋がほんとの板橋だからね
子供の頃は良く氾濫してね

今、こんなに深いですけど

そう、こんなじゃなかったの
桜の時期はすごいんだよ

はい、その頃もう一回来ようと思っています。

終わりの頃になるとね
ピンクの絨毯になるんだよ
流れがそんなに速くないからね

そのあと、もう少し写真を撮って
その先の縁切榎へ向かう

さっきのおじいちゃんに追い付いちゃった

先程はありがとうございます。
この縁切榎というのはもうちょっと先でしょうか

ちょっと地図を貸してごらん

その後も、写真を撮るために立ち止まり、
歩き出しては、おじいちゃんに追い付く
そのたびにちょこちょこっと会話

ああ、ありました、縁切榎
ありがとうございました

縁切榎
元禄時代の終わり頃、本郷に住んでいた伊藤身禄さんが富士山を深く信仰し
北側からの登山口を開拓し
最期は富士山の頂上で死にたい

今がその時、と
家族を捨てる覚悟をし、出立

ところが、奥さんが3人の子供を引き連れ

おとうさーん、おとうさーん

なんとか、板橋宿で追い付いた。

お父さんどうしてもやりたいことがあるんだ

泣きじゃくる子供たちをこの榎の所に座らせて説得
今生の別れ

その後、言葉通りに北側の登山口を開拓し
頂上で亡くなった。

それ以来
縁切榎と呼ばれ
病気や苦難と縁を切りたい人が拝みに来る

絵馬がいっぱいあって
〇〇と縁を切りたい、というのが書かれていた。

和宮の時は大変だったらしい。
迂回するルートをわざわざ作った。
さらに、当日、でっかい布を、せーので被せて


そのあと、途中氷川神社に寄りつつ
石神井川沿いに桜を見ながら
満開を想像しつつ、ピンクの絨毯も想像しつつ
中板橋駅まで

ああ、楽しかった

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

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