イギリス公使、オールコック

オールコックは初代イギリス公使になります。

当時、文句なしに世界の最強国はイギリス

特に日本にとっては、最も影響を受け
世界と言えば、中国、と思っていたその強大国にアヘン戦争で勝っちゃった

そんな馬鹿な
信じられないことをやってのけた、恐い恐い国

そのイギリスが送り込んできたのが、このラザフォード・オールコック

オールコック
ペリー来航の6年後、1859年にやって来ます。

日本に攘夷の嵐が吹き荒れておりました。

アメリカの公使、ハリスの通訳をしていたヒュースケンが
1961年1月14日に、浪人たちに殺されてしまいます。

次はわが身か

オールコックは、日本にいた3年間で経験した事を
「大君の都」という本にまとめています。

江戸高輪の東禅寺を公使館としていたのですが、
東禅寺を、本の中でべた誉めしています。

「その寺は湾のへりにあって、十分な宿泊設備とひろい土地を有し、
しかも海上との通信·連絡も容易だという欠くべからざる条件を
全部かねそなえていた」
「これほど美しい草庵を選べたことは幸いだといわざるをえない」
「あまりにも完璧であるがゆえに、何か恐ろしいお返しが
わたしの運命の上に降りかかるのではないか」

残念ながら、その予感が第一次東禅寺事件として的中してしまうんです

第一次東禅寺事件
1861年7月5日、10数名の水戸藩士によって襲撃を受ける
でも、奇蹟的にオールコックはけがひとつしなかった。

後に別手組と言われる、護衛の武士たちが勇敢に戦ったんです。
護衛で頑張った人達は、イギリス本国から感謝のメダルを贈られています

そして、さらに翌年、1862年5月29日
今度は、その頑張った護衛のメンバーのうちの一人が
単独で襲撃をします。
第二次東禅寺事件。

婦人を伴って遊び回っていること
大切にしていた自慢の火縄銃をけなされた事が我慢ならなかったらしい
悲しいですね。

こうなると、恐くて仕方ないので、あんなに気に入っていた東禅寺をあきらめ
寺のような借り物じゃなく、常設の作ってくれと、幕府に強く訴え。

御殿山に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の為の敷地を準備
まずは、イギリスの公使館を建設。
ほぼ完成と言う1863年1月31日
伊藤博文、高杉晋作、井上馨という超豪華メンバーを中心とした
長州藩士13名が、イギリスの公使館を焼き打ちにしてしまいます。

もう踏んだり蹴ったり

4国結託して、江戸を引き揚げ
横浜に移ろうとするんだけど
この頃から、仲良かった筈の4国が微妙な温度差を見せ始め

英仏、英米の各公使がどんどん仲悪くなっていきます。

観光
何度も危ない目に合ったオールコック
もう、日本はうんざり?

半分当たりで半分外れ

とても嫌になった日本は、幕府に対する印象
のらりくらりで、まともに安全を確保してくれない幕府の事が大嫌いになります。

おそらくこの辺の印象が、後に新政府側に大きく傾いていくベースになっているんでしょう。

残りの半分は、それ以外の日本
風光明媚な日本の事が大変気に入り
富士山や熱海など、各所を奥さんと観光して回ります。

富士山に登頂した初めての外国人としても有名です。

富士山頂にイギリスの旗を立てちゃう、やんちゃな事もしちゃうんだけどね。

次に行った熱海
吹き上げる間欠泉に愛犬が
当たっちゃって死んじゃいます。

悲しみに暮れるオールコックに
名もなき地元の人達が、丁重にお葬式をして
自分の事のように哀しみます。

これにはオールコックも感激
日本人の人情に触れて
本でも日本の庶民の事を忘れられない出来事として描いています。

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