[百人一首]97 来ぬ人を 藤原定家本人の歌

百人一首シリーズ

ながらく続けてまいりましたが、残り4首です。

いよいよ、百人一首の選者、藤原定家自身の歌になります。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ

待てども来ないあの人を待つ私は、
松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように
毎日、身を焦がれるような思いでいることですよ

藤原定家
「ふじわらのていか」でも「ふじわらのさだいえ」でも良いけど、ていかの方が一般的かな

83.世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
の藤原俊成(ふじわらしゅんぜい)の息子

和歌の世界では、神様のように思われている人。

和歌を社交の道具から、芸術として自立させるべく、
自分で作ることのみならず、評論や、指導やらと精力的に活躍した。

本人が書いたものしかないと、紙が朽ち、いつかはなくなっていく
印刷という技術がない訳だから
誰かが、これは優れた文学だと見いだし、書き写して増やしていかないと
後世に繋がらないし、広がりも持てない。

藤原定家は、書き写しも積極的にやった
特に源氏物語や土佐日記

定家ほどの大御所になると
自分が作ったものを発表するだけで良さそうなもんだけど
和歌を中心とした文学が好きで好きでたまらなかったんでしょうね。

『古今集』の歌風を尊重し、
その上にお父さん、俊成の唱えた「幽玄」をあわせる
そしてさらに、「有心」の美というものを説いた。

有心というのは、定家が名付けた、和歌の世界の概念で、歌に深いこころがあること。
「ことばは古きを慕ひ、心は新しきをもとめ、
及ばぬ高き姿を願ひて寛平以往の歌に習はば、
おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ」

後鳥羽上皇
当時のトップ、後鳥羽上皇も負けず劣らず、和歌が大好き
二人は意気投合
後鳥羽上皇は定家に「仕事」をさせます。

『新古今和歌集』という和歌集を作らせる
密月時代です。

ところが
後鳥羽上皇は、あまりにも歌が好きだったために
あれこれ口を出すようになります。

最初はそこでの議論自体楽しかったんだけど
藤原定家は、すぐに引くような性格じゃなかったので
次第に、
こらっ、定家、言うこと聞かんかい

大喧嘩になってしまい、干されちゃいます。

それでも、定家の方からは
後鳥羽上皇に対する、尊敬の念は持ち続けます。

後鳥羽上皇は、そのあと幕府を倒そうと事を興して失敗し、島流しになっちゃうんですが
後鳥羽上皇大好き!は変わりません。

普通なら、後鳥羽上皇派の藤原定家は
一緒に冷や飯を食うところですが
ラッキーと言ったら良いんでしょうか
途中から後鳥羽上皇に嫌われていたので
世間的には、後鳥羽上皇派とは見られていない。

さらに、幕府派で強力な実権を握った藤原公経と親戚になったことで
一気に引き上げてもらえます。

そのあとも、ずっと後鳥羽上皇の事が気になっている定家
もちろん、幕府派ということで引き上げてもらったので
あからさまなことはできません。

ある計画をするんですが
その話は、後でまたする機会があるのでその時にね

藤原定家は1回で終わらせるのは勿体な過ぎるので2回に分けますね
明日は、百人一首ができた敬意と、込められた思い
そして、この来ぬ人をの歌について続けていきます。

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