文観。後醍醐天皇、お味方致します。

名僧シリーズ、室町時代(南北朝時代)に入って参ります。

文観(もんかん)
真言宗 1278~1357年
文観は弘安元(1278)年に播磨国で生まれた
幼いうちから北条寺に入り、次は法華山一乗寺と播磨にいた
やがて、大和西大寺へ移る

正和5(1316)年、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受ける
密教では、これを受けると一人前と見なされます。
真打ちみたいな感じでしょうか。

後醍醐(ごだいご)天皇
敬意は良く分かりませんが、文観は、後醍醐(ごだいご)天皇にとても気に入られます。
元亨元(1321)年、前の後宇多法皇が院政を停止して、
ようやく好きなように政治が出来るようになったあと、
文観を参謀として起用しています。

文観にやって欲しい事があったんですね
密教の祈祷の力で、憎き幕府を倒すこと

正中元(1324)年、
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚します。
正中の変です。

でも、この時は、初犯ということもありますし
後醍醐天皇や文観にはおとがめなし
とかげの尻尾切り的処罰で終わりました。

嘉暦2(1327)年、文観から後醍醐天皇に、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を授けています。
この時点では、後醍醐天皇はまだ出家していないし、修行もしていないんですがね
まあまあ、堅い事はなし、って事でしょう。

懲りない後醍醐天皇
倒幕準備をコソコソと
でも側近に、告げ口されてしまいます。

今度は文観、捕まっちゃいました。
厳しい尋問を受け、硫黄島に流されます。
元弘の変です。

後醍醐天皇は、京都を逃げ出します。
三種の神器さえ持ってりゃ大丈夫。
でも、残念。捕まっちゃいました。

隠岐の島に流罪
後鳥羽上皇の、承久の乱の時と一緒ですね。

ただ、後鳥羽上皇の時はここまでで仕舞い、でしたが
まだ続きます。

諦めない後醍醐天皇
頑張り屋さんです。

楠木正成(くすのきまさしげ)のような、幕府に対する不満分子が動き出します。
よっしゃ、いけるかも。
隠岐の島を逃げ出し、彼らに声をかけ、倒幕の挙兵

いかん。つぶさねば。と鎌倉幕府
送り込んだのが、足利尊氏(あしかがたかうじ)
人選を間違えました。
後醍醐天皇側に寝返ります。

そして、東国で兵を挙げたのが新田義貞(にったよしさだ)
役者が揃いました。
元弘3(1333)年、鎌倉幕府の北条氏ついに敗れます。
イチミサンザン鎌倉幕府の崩壊です。

文観も復活致します。

建武の新政(けんむのしんせい)
翌年、後醍醐天皇の新しい政治だっ
建武元(1334)年、イザ見よ、建武の新政です。

今まで武士達に良いようにされてきた鎌倉時代だったが
天皇中心の政治に戻すんだ。

文観もこの世の春。
何でもかんでも思いのままでございます。

そのまま、すんなり行く筈でした。
でも、ひとつ大きく勘違いしていた事があったんです。
大活躍してくれた、足利尊氏達は全員、武士だった。
あっ、忘れていた。

武士を排除した、天皇中心の政治?
は?
そんなつもりで事を起こした訳じゃない。

足利尊氏はすぐに反旗を翻した。

あえなく撃沈。になりそうですが
なんでしょ、この後醍醐天皇という人
しぶといわぁ

何度立ち上がるんでしょ
しぶといランキングがあったらトップ
天皇界のロッキーです。

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗
でも劣勢は明らか
足利軍の和睦の提案を受け入れ、三種の神器を渡す。
足利尊氏は光明天皇を新天皇として立てて、新しい幕府を作ります。

後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れます。
渡した三種の神器は偽物だよーん。
と、我こそは正当な天皇なりと主張(南朝=吉野朝)。
南北朝時代の始まりです。

もちろん、文観も南朝へ
北朝潰れろ、と祈祷の日々。

結局、自分の子、後村上天皇に譲位し、天寿を全う
最後まで生き抜きました。

真言立川流
文観というと、真言立川流という話が必ず出ます。

真言宗をベースにはするが、陰陽道と混ざり合った、特殊な信仰
陰と陽の交わりは、男性と女性の交わりであり
性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になるとする

平安時代の末期に仁寛という僧が始め
文観が広めたとされていた。

ただ、このような怪しげな信仰はことごとく資料が廃棄されたため
ほとんど何も残っていない。

今では、文観は無関係という説の方が有力になっている。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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