[天皇]27-28 安閑天皇、宣化天皇。本当かな疑惑。

安閑(あんかん)天皇
勾大兄尊(まがりのおおえのみこと) 531~535年

継体天皇の息子です。

継体天皇は二人の奥さんがいます。
安閑天皇は、越前にいるときからの奥さん、目子媛(めこのひめ)との間に産まれた最初の子供です。
イメージ的に言うと、出世前の下積み時代からずっと支えてくれた奥さん

もうひとりの奥さんは、手白香皇女(たしらかのひめみこ)24代仁賢天皇の娘です。
天皇家の血が途絶え、応神天皇の5代孫だとは言っては見たものの、とても弱い。
天皇の娘を嫁にもらえば、その間に産まれた子供は、ちょっと安心
手白香皇女の方が皇后という位置付けになります。

現実に、手白香皇女との間にも子供が産まれ、それが欽明(きんめい)天皇

という事情なので、周りのみんなは、欽明天皇を皇太子とし、次期天皇と位置づけたい。

継体天皇は、大和入りするとき、この「周りのみんな」にずいぶん抵抗された。

彼らに対する意地もある
越前時代から、ずっと安閑天皇は補佐してくれていた。
優秀なのは分かっている。
欽明天皇はまだ若いというのもある。
唯一の安閑天皇の欠点は、もうすでに結構の歳だということ

安閑天皇を皇太子とした
文句は言わせない。
亡くなる時も、覆らないよう、周到に準備をしてから息を引き取る。

そんなだから、安閑天皇は派手さはないものの、安定感抜群。
人事面も、お父さんの路線を全て引き継ぎます。
大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を大連(おおむらじ)とします。
この実力者二人をそのまま重用したので、周りのみんなを押さえることが出来た。
そして、奥さんも、お父さんと同様に、
24代仁賢天皇の娘である、春日山田皇女(かすがのやまだひめみこ)を皇后とする。

ひとつだけ派手に展開したのが、屯倉(みやけ)と呼ばれる大和朝廷の直轄領を思いきり増やした事。

また、安閑2年には、五穀豊穣を祝って
人民に食事を振る舞う、5日間にも渡る大パーティを行っています。

ただ、残念ながら、年齢高めはいかんともしがたく
3年ちょっとで亡くなってしまいます。

宣化(せんか)天皇
檜隈高田(ひのくまのたかた)535~539年 

さあ、欽明天皇の出番かな、と思いますがそうはなりません。
安閑天皇には、越前の頃からの弟がいました。

頑張りましたね
欽明天皇には渡さず、弟に譲ります。

お兄さんの方針を踏襲
人事面では、実力者二人の大連に加え
大臣(おおおみ)に蘇我稲目(そがのいなめ)を起用します。
出ましたね、蘇我氏。
ここから蘇我氏の歴史がスタートです。

屯倉もお兄さんにも増してガンガン増やします。

ところが、弟も結構の歳だったんですね
即位して4年ほどで亡くなっちゃいます。

疑惑
実は、日本書紀ではちょっと変な風に書かれているんです。

本文の他に、注釈的な別紙があって
安閑天皇の即位の年が違う年として書かれている。
さらに、別紙の方には、百済本記(くだらほんき)によった、と言い訳めいた事までかいてある
確かに百済本記を見るとやっぱりずれている。

そして、聖徳太子の伝記として書かれた、一番古い「上宮聖徳法王帝説」では
何と、継体天皇の後、欽明天皇が即位したと書いてある。

ありゃりゃ、何だか怪しいぞ
こうなると、昔の事ですから、学者によって説が分かれます。
継体→安閑→宣化→欽明説と
継体→欽明説

そして、一番面白いと思うのが、両方正解説
どういう事かというと
南北朝時代のように、二朝対立で
安閑→宣化と欽明が同時並行で並び立ったと

うーん、面白い。

結局正解は分からないので、
私のような素人は、面白い説も大歓迎です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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