[江戸城] 天守は3回丸々変わって、その後なし

江戸城シリーズ、今回は天守についてです。

天守
そもそも天守(天守閣)って、織田信長が始めたもの
天正4(1576)年の安土城が初めてです。
厳密には、それ以前にもあると言えばあるのですが
微妙なので、織田信長からと考えて良いと思います。

従って、それ以前にも城はいっぱいありますが
天守はありません。

天守って、城主がそこに住んでいて、最上階から町を眺めて
あっぱれあっぱれ、
って言っているイメージがありますが
天守には人は住みません。
天守に住んだのは、唯一、信長だけです。

江戸城の天守
江戸城の天守って、丸々3回も作り直されています。
最初は、慶長天守。慶長12(1607)年。家康が作りました。
次は、元和(げんな)天守。元和9(1623)年。2代将軍、秀忠が作りました
3つめは、寛永天守。寛永15(1638)年。3代将軍、家光が作りました。

とても不思議です。
家康の天守も、秀忠の天守も、たった15年しか使っていません。
リフォームだったら話は分かりますが、建て替えです。
丸っきり壊して建て替え。
うーん、もったいない。

一つずつ見ていきましょう。

家康の天守
家康の慶長天守は、その実態が良く分かっていません。
現在の天守台より、200mほど南に建っていました。

5重5階で、1階の床面積は豊臣大阪城の2倍以上
高さは天守台を含め、55mという説が有力です。
おそらく色は、姫路城のように白

外観は簡素な感じ。
おそらく、中身はもっと簡素。
あまり真剣に戦争するつもりでは作られておらず
大きさが他の城より大きくて威厳を示すというのが目的だったと思われます。

秀忠の天守
本丸御殿を拡張したことに伴い
場所を北に移動します。
現在の天守台とほぼ同じ位置

それにしても、偉大なるお父様が作った天守を
わずか15年で壊しちゃうとは。
秀忠もすごいことしますね。
本当は家康の事が嫌いだったんでしょうか

こちらも、詳しいことが分かっていません。
でも、作り直すくらいだから、家康の天守より大きかったんじゃないでしょうか。

家光の天守
またまた、15年
これは、秀忠文句は言えませんね
秀忠と同じことをしただけですから。

これは、まあまあ分かっています。
どでかいです。
5重5階、地下1階。6階建てということになります。
天守台合わせて、59m
15階建てのビルに相当します。

大きさ比較するとこんな感じ

でかあっ

色は黒っぽかったようです。

屋根は銅板を張った銅瓦で覆われていた
銅瓦は耐久性が格段に良く
300年はもつものです。
銅ですから、10年ほどすれば、緑青が出て風合いも良くなります。

耐震性や耐火性も高い構造です。

15、15、19と覚えましょう。

明暦の大火
あれれ、19って何?

耐久性抜群の寛永天守
後から考えると、江戸時代は260年
今度こそはそのまま最後まで行っても良さそうです。

ところが、19年後でした。

江戸中を焼きつくす明暦の大火がおきます。
本丸も全焼

耐火構造の天守は?
残念。中に鉄砲で使う火薬を置いてあったら、耐火もなにも、大爆発

ドドーンと消えてなくなりました。

3つの天守合わせて、約50年。
江戸時代は260年
最初の2割くらいにしか天守は無かったんです。

暴れん坊将軍に江戸城の天守が映ったりしていますが
あれは真っ赤な嘘。8代将軍は真ん中辺りなので、ある筈がなく
姫路城を映しています。

この事が、5年前まで、歴史なんぞに興味が皆無だった私が、歴史に興味を持ったきっかけです。
あまりにも意外だった。

明治4年に江戸城を写した写真集があって、それをある人からいただいた。
どこにも天守が写っていない。

変だなあ。
こんな更地にするのも逆に大変だったろうに。

調べてみて、この事実を知り、びっくり仰天。
え、江戸時代って何なの?
もっと知りたいわあ、と

もっと言うと、そもそも本丸御殿さえ写っていなかったんですけどね。
江戸城無血開城という言い方をしますが
その時点ではその5年前に本丸御殿は火事で全焼し
建て直すお金がなかったので、建て直さず、大奥の天璋院篤姫や和宮は
西の丸に住んでいました。

では、その本丸の話や、石垣やお堀の話なんかは、また改めて。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

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