[天皇]40 天武天皇。壬申の乱から律令制度の確立へ

天皇シリーズ

天武天皇
673~686年

壬申の乱
古代において最大の内乱
内乱で天皇の座を勝ち取ったというのは初めての出来事です。

弘文天皇が兵をあげたのは、唐からの要請で、新羅へ向かうため
さらに、皇后は、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)と額田王の間の娘、十一皇女(とうちのひめみこ)
まさか天武天皇が自分を討ちに来ようとは夢にも思っていなかった

美濃の国(現在の岐阜県)に所領があったので準備しておけと指示
吉野を起ち、伊勢を通って、美濃の野上へ
ここを本営として体制を整える
さあ、弘文天皇の近江へ

天武天皇率いる反乱軍は、
勝ち馬に乗ろうと言う兵を加速度的に集めていく

近江(弘文天皇側)と飛鳥(天武天皇側)で一ヶ月激戦が続き
とうとう、弘文天皇は自殺に追い込まれた。

近江宮を廃し、飛鳥の地に都を移し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と呼びます。
翌673年、即位し、天武天皇となります。

この時点で、いっぱいいる奥様のうち、鸕野讃良(うののさらら)を皇后として指名します
後の持統天皇です
やり手です。

前の天智天皇(実質、前の天皇は弘文天皇ではなく天智天皇)の大臣は内戦で全員死んじゃいました。
内戦の功労者もいっぱいいたのですぐに大臣を指名しても良かったんでしょうが
一人も大臣を置かなかった
持統天皇の助けを借りながら自分で強力に政治を推し進めていきます。
みんな一からのスタートですが、出世の基準も明確に示し、超実力主義
仕事が出来る者をどんどん引き上げていった。

路線自体は前の天智天皇の律令制度を踏襲し、
飛鳥浄御原令で大きく完成に近づいた
この飛鳥浄御原令の中で、初めて正式に「日本」という国名が使われます
今までの「倭国」から「日本」が誕生した訳です。

めでたい

祭祀の面でも明確に整備していき
この時に始まったのが、大嘗祭(だいじょうさい)
行きましたよ、大嘗宮

この時からほぼ変わらない形で
1300年以上も続いているんだものなあ

私は、ニニギノミコトから続いている天皇の系譜を継承する神様ですよ、と宣言
詔(みことのり)のはじめに
「明神御大八洲倭根子天皇勅命者」

天皇陛下は神様よ、と母さんが良く言っていたから
代々の天皇は、ずっと自分の事を現人神(あらひとがみ)だと言っていたのかと思っていたら、そうじゃない
明確に自分を神だと言ったのは、天武天皇と明治天皇くらいです。

壬申の乱で功のあった大伴御行(おおとものみゆき)は
壬申の乱のあとにこんな歌を歌っています。

大君は 神にしませば 赤駒の はらばう田井を 都となしつ 

大君は神でいらっしゃるので赤訳駒の腹這う田んぼでも都となさった
「赤駒」は栗毛の馬、「腹這う」は腹までみ水に漬かる
天武天皇を神として讃え、栗毛の馬が腹まで漬かっていた田んぼまで都になさったと力強さを歌った

自分を神だと位置付けるため作ったのが、古事記と日本書紀です
その作成を指示
完成までにかなりかかるので
出来たのは、天武天皇の時期ではないのですが。

このテーマはとても大きいので、
古事記と日本書紀の事は次回お話しようと思います
古事記と日本書紀ってなんで似たようなのが二つもあるのって

海外事情
内乱をやっている場合じゃなかったです。
海外事情が大変なんでした。
弘文天皇は新羅を討てと唐に言われて兵をあげたんでした。

行こうと思ったんですが
殺されちゃったんですよ
仕方ないでしょ、勘弁ね

勘弁してくれる訳ないですね
状況は悪化

天武天皇は要請に答えるつもりはありません
まずいんじゃないかなあ

唐を怒らせると、また、日本侵攻になっちゃう

ところが、天武天皇は運が良いというか
即位後、10年ほど経つと情勢が変わってきたのです。

チベット高原の吐蕃(とばん)が唐に侵攻してきた
もう、東側を構っている場合ではない

吐蕃が急速に力を無くせば
今度は北で、突厥(とっけつ)が勢力拡大

助かったあ

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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