[名僧]明治の廃仏毀釈の続き

[名僧]明治の廃仏毀釈で寺が絶滅?
の続きです。

経緯
経緯をまとめていきましょう

慶応4年3月13日、祭政一致の基本方針が宣言されます。
思想的に中心になったのは平田篤胤(あつたね)という国学者
神道が好きで仏教があまり好きじゃない

この人の意見が強く影響し、神祇官(じんぎかん)なる組織ができます。
神祇官は太政官(だじょうかん)という政府組織より上位に位置付けられます。

神社と寺院を分離し、仏教を潰せと言わないまでも
寺院を合併せよとか僧侶に還俗(げんぞく)せよとか
六項目でいやがらせ

強く抵抗したのが、浄土真宗。
西本願寺、東本願寺の働きを受けて
政府は方針転換

神祇官は明治4年に格下げになり、神祇省になり
さらに、教部省の管轄になります。

ただ、平行して、地方では廃仏毀釈の風が吹き荒れるのです。

言わば忖度(そんたく)
廃藩置県なんてことになると大変なので何とか中央のご機嫌を取りたい

廃仏毀釈と呼ばれる動きが最初に起きたのは佐渡
539ある寺を、80にまで減らし
廃止した寺の僧侶やその家族たちは80の寺にぎゅうぎゅう詰め
立ち退きしない寺は、大砲を撃ち込んで焼き討ちにすると噂が流れて大騒ぎ

それ以外にも、説法禁止、寺の新設不可、仏像仏具を金属で作っちゃ駄目、等々7項目のいやがらせ

これが他の地域にも広がっていく事になります。

最も過激だったのが富山藩
維新とともに、藩政改革をしようとし、40歳以上の藩士をクビにし
若い人を登用
31歳で大抜擢された、林太仲(はやしたちゅう)は張り切っちゃった
徹底的に廃仏毀釈
各宗派ひとつだけしか寺を認めず、他は全て廃止するとした。

現場は阿鼻叫喚だったとの文書が残っています。

教部省になると、行き過ぎた廃仏毀釈に歯止めをかける動きになります。
寺院の合併などは、中央で判断するので、地方では推進禁止

本願寺が頑張って、
仏教だって頑張るぞ

教院という教育機関を設けることになりました。
大中小の3つに分け
小教院は、全国の全部の寺院
中教院は、各府県
中央に大教院
最初は京都の金地院に置かれましたが、東京の増上寺に移されました。

教部省から、神道も入れてあげてよ
と言われ
仏教と神道の合同教育機関となり
次第に神道の方が強くなっていきます。

増上寺には、しめ縄が張られ、山門の前に大鳥居も出来ました。

ただ、神道の方の神官の説教は人気が無かった。
教えることに慣れてませんから

ついつい、仏教側の本地垂迹説を喋っちゃったりして
失敗した、間違えた。

右往左往しながらも、大きく言うと、祭政一致というのはあきらめ
信教の自由というのは打ち出します。

廃仏毀釈が5年ほどで収束したのはほっとします。

本願寺の頑張りというのはあるとしても
私としては二つの理由なんじゃないかと思っています。

ひとつとしては、全国の神社が反応しなかった。
それまでは、仏教に従属されられてきたので、せっかくのチャンスと言えるんだけど
私達は宗教じゃないし、と拒否反応を示しちゃった

中央ではそんなことおかまいなしに、国家神道というものを推進していき
最終的には戦争へと突入していく訳です。

おそらくそこにはズレがあり
今までにあった神社は、単に自然や先祖へ感謝だけ
何物も意図しなかった

だから、意図した神社はあとから作られ、元の神様たちじゃなく
明治神宮、乃木神社、東郷神社のように、人間を英雄として祀っていくものになった

もうひとつの理由は、外圧でしょう
黒船で開国を迫ったのは、日本を植民地にしたかった訳ではなく
貿易をしたかったんだと思うけど
もうひとつあるのは、キリスト教の布教

屈した基本が明治維新になったからには、キリスト教を大々的にと期待していたのに
日本の神様で行こうとした。

はあ?
ってところです。
こんなにお世話したげてるのにと。

ただ、キリスト教を強制的に信じなさいと言うわけにもいかなかったんでしょう
信教の自由にしなさいよと。

廃仏毀釈は諦めても
「天皇陛下は神様よ」という国家神道化は
お偉いさんがなんとしても進めようと、このあと色々やっていきます。

また、ちょこちょこ触れていくことにしますね

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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