[明治]板垣死すとも自由は死せず

明治シリーズです

板垣退助

100円札です
懐かしーい

国会議事堂の中央広場には、3人の銅像
伊藤博文、大隈重信、そして板垣退助です。

幕末
土佐藩です。
藩主山内容堂に嫌われたり気に入られたりと、ころころ
結局は軍事担当者として、西洋式の軍隊を組織します
戊辰戦争では、その西洋式の軍隊が重用され、あっちでもこっちでも板垣退助

明治
その功をかわれ、明治になってからは高知藩の大改革に乗り出します。
中央より早く、板垣が高知藩で「四民平等」を打ち出します。
まだこの時点では、高知の代表的立場だったんだけど
明治四年、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がやって来て会見
ぜひ高知も長州、薩摩とともに、中心的役割を担ってほしいと言われて、快諾
中央の政府直轄軍に人を出します。

参議を決める際、木戸孝允と西郷隆盛だけだったんだけど、二人だけじゃ良くないでしょうと
木戸孝允が大隈重信も入れようと推薦
それじゃあと、西郷隆盛が推薦したのが板垣退助

そうこうしているうちに、岩倉具視使節団で、大久保利通も木戸孝允も日本を留守にするので
西郷隆盛が大隈重信と板垣退助の協力を得て留守組としてあれもこれも

板垣も中央で活躍するようになります。

留守組は征韓論でまとまるんですが
そもそも板垣退助が言い出した事。

使節団組が帰ってきて、征韓論をねじ伏せられると
やってられるかい、と下野

中央に反発した人たちはやり方として大きく二つに分かれる

一つは西郷隆盛がそうだったように
武力で立ち向かおうとするもの
中央は全力をあげて潰しに来て
結局は西南戦争のように全滅

板垣はこのやり方を取らなかった。
言論による反発

中央は結局は薩長藩閥のものたちが、何でも決めて突き進む
もっと開かれたやり方をしないとダメでしょう
自由民権運動です。
国会というものを作って、話し合いで決めていく政治

愛国公党を設立。愛国社に変更。
民撰議院建白書を提出

やっぱり戻ってきてくれと、大久保利通に言われて
木戸孝允と共に中央に戻る。

戻る条件として、「国会作る」を認めてもらえる。
だから、国会議事堂の中に銅像が立つわけ

よっしゃあ
勝ち取りました。

ただ、すぐにでもという板垣に対して木戸孝允は十分準備をしてから
結局ここでも負けちゃって、10年後に国会開設の詔
でも、国会開設が正式に決まりました。

愛国社はまたまた名前が変わって立志社
10年後に国会か
ようしやるぞと、立志社を見習って、全国いたるところで自由民権結社がポコポコできる
そんな小さな結社に呼びかけて、それぞれをくっつけていってどんどん大規模にしていく。
いよいよ、自由党の誕生です。

大事件
岐阜で、板垣が演説中に刺客に教われます。

板垣死すとも自由は死せず

有名な名ぜりふ

こう言いながら死んだんだとばかり思っておりましたが、違ってたんですね
ここは死んでません

見舞いの品が天皇からプレゼントされたり
殺されかけたということで、板垣人気が急上昇

同じ年、僕も、と大隈重信が政党を作ります。
立憲改新党

自由党の方が大人気です。

正直言うと、比較すると大隈重信ほど板垣退助は頭が良くない。
大隈は政策をどんどん思い付きますが
板垣は、あんまり分かりませーん

周りの人たちは大体分かってます。
板垣の能力の限界

でも、一番その事が分かっているのが本人でした。
私は政策提言能力は無い
だったらその欠点を補うべく足で稼ごう。
色んな会合に顔を出したり、実にこまめにちょこちょこ

数においては、自由党は圧倒します。

でも、板垣は「壊し屋」的性格
どんどん大きくなってくれば壊したくなっちゃう
そういう人いるよね

さらに言うと、権力欲が希薄
伊藤博文や大隈重信に比べると、権力への執着心があんまり無い

結果として、伊藤、大隈は首相になったのに
板垣はなっていない。

一度だけチャンスがあった
自由党と、大隈の党が大同団結
憲政党
今まで、伊藤博文の藩閥内閣だったけど
いよいよ、政党の内閣ができました。

なのに、首相になったのは板垣じゃなく、大隈
私、良く分からないから、大隈さんが首相やってよ
大隈首相、板垣内務大臣という、世にいう隈板(わいはん)内閣です

なのにまた、板垣の壊し屋的性格が頭をもたげてしまいます。
旧自由党メンバーは辞表を提出してしまいました。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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