[首相]22 林銑十郎は何もせんじゅうろう

林銑十郎(せんじゅうろう)

陸軍に入った林は、日露戦争で功をあげ
その後大きく出世していく。
若いときから、あの特徴的なヒゲだった

昭和5(1930)年、朝鮮を管轄する朝鮮軍司令官に任ぜられる。

翌年、満州事変が勃発

関東軍は、朝鮮にいる林にも応援を要請した。
ただ、その間には国境が存在する。
国境を越えて軍が動くには天皇陛下の許可がいる

国境の手前までは集結するが越えられない。

許可を得るべく日本へ連絡するがなかなか返事が来ない

じれる関東軍はわざと国境近くで騒動を起こす。

とうとう、林は独断で国境を越えてしまった。
その後、越境将軍と呼ばれることになる

自分でもそのことの重大さは認識しており
白装束に身を固めた。

その姿に驚いた部下に
なあに陛下の大命をお待ちしている身
それまではお前たちが薦めたって死ねるもんか

独断でという事実だけを見ると、強硬な性格のようだが
むしろ逆
部下思いの上司だった。

拝命
広田弘毅首相のあと、元老の西園寺公望が指名したのは陸軍の宇垣一成大将
宇垣は加藤高明内閣で陸軍大臣を務めていたとき、
四師団を廃止するなどの軍縮を行っている。

軍人でありながら政府の意向をくみ取り、さらに陸軍の実力者である宇垣であれば、
政治への干渉が著しい陸軍を抑えることが出来る

ところが、広田弘毅首相の時、現役武官制が復活してしまった
陸軍が、陸軍大臣を出しませんよと言うと内閣が成立しない。
早速、その制度が使われる。

陸軍の石原莞爾(いしわらかんじ)が
林銑十郎なら御し易しと林銑十郎の擁立に動く。

宇垣一成内閣成立ならず

元老の西園寺公望は次に平沼騏一郎の名をあげ
断られれば、林
補欠の補欠

結局、平沼にも断られ、林にお鉢が回ってきた時は夜遅かった。

石原莞爾らは、組閣参謀として十河信二を送り込み
陸軍大臣には板垣征四郎を推す
ところが、陸軍内でも派閥争いがあり
寺内寿一は、中村孝太郎を推す。
林は驚くべきことに突然寝返り、中村を陸軍大臣とし
十河信二も解任
怒った石原莞爾は絶縁状を叩きつけた。

政党嫌いの林は、入閣の条件として政党の離脱を要求したので
政党からは1人の入閣のみ

林首相
林の最大の課題は、財界と軍部との関係修復
林の就任当時は、満州国の利権を巡る各財閥と軍部との争いが起き、
悪化した関係の再構築が新内閣に求められていた。
財界出身の結城豊太郎を大蔵大臣として入閣させ、
三井財閥の池田成彬を日銀総裁にした

内閣発足後3ヵ月
予算も通り、
さあこれから、と思われたとき
突然議会を解散した。

一体何が起きたのか
みんなあっけにとられる

結局その真意は分からないのだけれど
政党嫌いの林としては、近衛文麿を担いで
政府寄りの新党を作ろうとした可能性がある

結局は近衛文麿にそっぽを向かれてしまう。
現政党の力を削ぐための解散だったはずが蓋を開けてみれば全く逆
立憲民政党と立憲政友会が圧倒的多数の議席を占めた

それでも続投しようとはしたが
近衛文麿を次期首相にという声が高まり
近衛文麿ならばと内閣を総辞職した

結局たったの4ヵ月
一体何がしたかったのか
何もせんじゅうろう内閣と揶揄された

退陣後は、元老が西園寺公望一人になってしまったため
重臣会議というものが助けるものとして首相経験者等で組織され、そのメンバーとなる
内閣が倒れたとき、次期首相を誰にするか推進する役目

東條英機の時は反対意見を述べ
皇族から首相を出すべきでは、と主張
採用されることはなかった。

開戦に関しては積極的に賛成側に回っている

太平洋戦争の最中に病気で死去するため
東京裁判で訴追されることはなかった。

次回は近衛文麿なんですが、その前に重要なキーパーソンである
石原莞爾について書きたいと思います。
調べると、ばくっと持っていたイメージがかなり覆されました。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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