[三十六歌仙] 撰者、藤原公任から

先日、新宿区の須賀神社で三十六歌仙絵というのを見ました。

今度、ウォーキングイベントにするということもあって
三十六歌仙を一人一人掘り下げていくことにします。

今回は、前段階として、三十六歌仙とはなにかという事と
その撰者、藤原公任(きんとう)について

三十六歌仙
短歌の世界で大御所中の大御所
藤原公任(きんとう)が「三十六人撰」という本で紹介した優れた歌人たち
これ以降、三十六なんとか、や、〇〇歌仙というのが流行する

百人一首の百人ともかなりダブっています。
36人中25人が百人一首でも選ばれています。

古今和歌集で「仮名序」という序文の中に六人の優れた歌人があげられていたんだけど
三十六歌仙が流行ったので、この人たちを六歌仙と呼ぶようになりました。
僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、゛大友黒主
僧正遍昭、在原業平、小野小町の3人は三十六歌仙ともダブっています。

須賀神社で三十六歌仙絵というのがあって
例えばこんな感じ

三十六歌仙が誰であるかと、これらの絵にのっている代表的な歌をあげてみますと以下の通り

■1.柿本人麻呂 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行く舟をしぞ思ふ
■2.山部赤人 わかの浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴なきわたる
■3.猿丸大夫 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき
■4.僧正遍昭 いその神布留の山べの桜花うゑけむ時をしる人ぞなき
■5.在原業平 月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
■6.小野小町 わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
■7.紀貫之 むすぶ手の雫に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな
■8.凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)住の江の松を秋風 吹くからにこゑちそふるおきつ白波
■9.紀友則 夕されば蛍よりけにもゆれどもひかり見ねばや人のつれなき
■10.壬生忠岑 はるたつといふばかりにや三吉野の山もかすみてけさは見ゆらん
■11.伊勢 みわの山いかにまち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば
■12.大伴家持 まきもくのひばらもいまだくもらねば小松が原にあは雪ぞふる
■13.藤原兼輔 みじか夜のふけゆくままに高砂の峰の松風ふくかとぞきく
■14.藤原興風 契りけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたびあふはあふかは
■15.藤原敏行 あきはぎの花さきにけり高砂のをのへのしかは今やなくらん
■16.源公忠 とのもりのとものみやつこ心あらばこの春ばかりあさぎよめすな
■17.源宗于 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば
■18.素性法師 音にのみ菊の白露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし
■19.大中臣頼基 子日する野べに小松をひきつれてかへる山ぢに鴬ぞなく
■20.坂上是則 みよしのの山の白雪つもるらしふるさとさむくなりまさるなり
■21.源重之 なつかり(初雁)のたまえのあしをふみしだきむれゐるとりのたつそらそなき
■22.藤原朝忠 よろづ世の始めとけふをいのりおきて今行末は神ぞしるらん
■23.藤原敦忠 いせの海ちひろのはまにひろふとも今は何てふかひかあるべき
■24.藤原元真 咲きにけりわがやま里のうの花はかきねにきえぬ雪と見るまで
■25.源信明 ほのぼのと有明の月の影に紅葉吹きおろす山おろしの風
■26.斎宮女御 袖にさへ秋のゆふべはしられけりきえしあさぢが露をかけつつ
■27.藤原清正 天つ風ふけひの浦にゐるたづのなどか雲居にかへらざるべき
■28.藤原高光 春すぎてちりはてにけり梅の花ただかばかりぞ枝にのこれる
■29.小大君 大井河そま山かぜのさむけきに岩うつ波を雪がとぞみる
■30.中務 秋風の吹くにつけてもとはぬかな萩の葉ならば音はしてまし
■31.藤原仲文 おもひしる人にみせばやよもすがらわがとこなつにおきゐたるつゆ
■32.清原元輔 契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは
■33.大中臣能宣 みかきもりゑじのたくひのよるはもえひるはきえつつものをこそおもへ
■34.源順 水のおもにてる月浪をかぞふればこよひぞ秋のもなかなりけり
■35.壬生忠見 こひすてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか
■36.平兼盛 しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

藤原公任
撰者なので藤原公任は三十六歌仙の中には入っていません。
百人一首にはあって
滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

祖父・藤原実頼、 父頼忠が共に関白太政大臣、母・妻共にそれぞれ醍醐天皇 と村上天皇の孫であるという華麗な一族の出身です。

15歳の時にはまるで皇族のように清涼殿の円融天皇の元で元服。
短歌、漢詩、管弦と何をとっても超一流

自信満々で目立ちたがり屋
能力が伴っていますので文句は言えません。

妹の遵子(じゅんし)は円融天皇の皇后となり、円融天皇、花山天皇の在位中は、
めざましい昇進ぶりが続きました。

ただ、遵子に子供が産まれなかった
同い年の兼家の息子、藤原道長に追い抜かれてしまいます。

そのあともどんどん差はつく一方

まあ、短歌の世界では右に出るものはいないわけだし、よしとしましょう。
道長も短歌については公任を認め大いに尊重しています。

紫式部とも大の仲良し

死後ずっと、公任の右に出るものなしと言われ続けるので
良い人生だったと言えるのではないでしょうか

春きてぞ 人もとひける 山里は 花こそ宿の あるじなりけれ
(春になって客がたくさん訪れた、この山里にある私の宿の主人は、この私ではなくて、桜の花だったのだな)

いづかたに 秋のゆくらん 我が宿に こよひばかりの 雨やどりせよ
(どこへ秋は去ってゆくのだろう。私の家で、今夜だけでも雨宿りして行ってくれよ)

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