[龍馬と女性]千葉佐那と片袖

[龍馬と女性]平井加尾への謎の手紙
の続きです。

「龍馬が惚れた女たち」という本からです。

千葉佐那(さな)
平井加尾の次は千葉佐那です。
坂本龍馬は二度に渡って江戸に剣術修行に出ます。

江戸三大道場は、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、
斎藤弥九郎(神道無念流)の練兵館、
桃井(もものい)春蔵(鏡新明智流)の士学館

玄武館の千葉周作の弟、千葉定吉の千葉佐吉道場
佐那は定吉の娘になります。
千葉佐吉道場跡も行ってきましたよ。京橋駅の近く。

龍馬伝では、貫地谷しほりが演じていました。
美しい

次第に想い合う二人。

龍馬がお姉さんの乙女に宛てた手紙でも、触れられています
今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい

少しとは言っていますが、美貌は知れ渡っており
小千葉小町と呼ばれていた。

定吉としては、二人の気持ちも分かったし
剣の腕前や人柄について申し分のない龍馬に
娘と結婚して道場を継いで欲しいと願うようになります。

結婚の準備に、龍馬の紋付きを仕立てます。
後に千葉佐那の回顧録で「婚約した」という表現をしているから
その紋付きを着てすこしばかりの儀式はしたかもしれない。

ところが、龍馬にはやりたいこととやるべきことが山ほどあった。

早く帰ってきてね

その後、龍馬は活動を京都を中心にした多方面になる
京都でお龍と巡り会っちゃうんですね

その後、江戸を訪れたとき、千葉道場にも訪れているが
佐那とは一言も喋らなかったという

分かります
ああ、もう私には気持ちがなくなったのね

そして、報せが届く。
龍馬暗殺

お龍と結婚していたということも分かる

忘れなきゃ、忘れなきゃ

龍馬の紋付きを切って処分しよう

でも、龍馬の紋の付いた袖の部分は
どうしてもハサミを入れられなかった。

明治維新
廃刀令も出るくらいなので、剣術の道場では暮らしていけなくなった。

華族女学校(学習院女子部)に舎監として
寄宿舎の管理・監督をする仕事を1888年2月まで行っている
寮母さんってイメージでしょうか

一説には一時期結婚していたのでは、という話もあるが
もしあったとしても一時期

千住に移り住んで、灸の治療院を解説する
千葉家は代々剣と共に、灸の専門家でもある。
千住は元々千葉家の地盤
千住の地名の由来として、千葉氏が住んでいたから、という説もあるくらい。

基本的には穏やかな人生だったろう

でも急に坂本龍馬ブームがやって来る。

大人気になった「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」という本の中に、龍馬の昔の恋人についても書かれていた。
ところが事実と違う。
千葉周作の娘光子と恋仲だったとある

違います。
坂本さんは周作とは無関係だし、光子という娘はいません。

間違いだけは正したいと、
証明に片袖を持ち出した。
大事にしまっていた思い出と共に。

1985年に土佐史談170号に、高本薫明氏が
甲府出身の小田切謙明と千葉佐那の交流について書いている。

小田切謙明は、坂本龍馬の船中八策の考え方を実現すべく
土佐藩出身の板垣退助の作った土佐立志社の
自由民権運動に身を投じた。

心労が重なり中風になったとき
板垣退助から、千葉佐那灸治療院を紹介される

何度か通って親しくなったとき
片袖による間違い正しの話を詳しく聞き出した
土佐史談にエピソードとしてのっている

佐那が亡くなって谷中墓地に葬られる。
でも佐那には縁者がいないので無縁仏となってしまう。
憂えた小田切は、分骨してもらい、甲府の自分の墓所に埋葬した。
墓碑表面には「千葉さな子墓」
裏面には「坂本龍馬室」と刻まれている。

この縁で甲府では
「千葉さな子杯女子剣道大会」が毎年開かれている

実はもう一ヶ所、単独ではありませんが、先日訪れた練馬のとしまえんの近く「仁寿院」にも墓があったらしい
残念、見逃した

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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