[歳時記]9/21 宮沢賢治死去。そういうものに私はなりたい

9/24
「雨ニモ負ケズ」の詩や「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」などの童話で有名な宮沢賢治は、
昭和8(1933)年9月21日、わずか38歳で亡くなった。

賢治は岩手県花巻市生まれ。
農学校の教師や農業技師を務めながら創作活動を続けていた。
だが、生前、そうした作品が評価されることはなかった。
わずかに大正12年に「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊を自費出版したのみ。
それもまったく売れず、なんの反応もなかった。

生涯独身を通して貧しい生活を送った彼は、亡くなるときもひっそりと世を去った。
父が見守るなか、水を飲み、自分でガーゼで体を拭き、
ぽとりとガーゼを落とすと静かに息を引きとったという。
自分の死期を予感していたのかもしれない。

銀河鉄道の夜は、法華経の精神
ジョバンニとカムパネルラでしたね
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」

雨ニモマケズ
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けない
丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れず
よく見聞きし 分かり そして忘れない
野原の林の下のかげの
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供がいれば
行って看病してやり
西に疲れた母がいれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人がいれば
行って怖がらなくてもよいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

これは、宮沢賢治が世の中に発表しようとして書いた文章ではない。
自分の手帳に、日記的に書いたもの
家族も知らなかった手帳が死後に偶然に見つかった。

そもそも、宮沢賢治は詩人ではない

この詩は、戦前から戦中にかけて盛んに使われた。
ただ、その時は、「1日に玄米4合」の部分は改ざんされていた。
満足に食べられない時代に4合は多すぎる

我々の感覚でも、1日に4合?って思うんだけど
江戸時代の資料とか見ていると、4合とか6合とか平気で食べている
おかずがろくなものが無い。
ご飯と味噌汁と漬物だけという日も多い。

この詩を書いたとき、宮沢賢治はほぼ病気で寝たきりだった。
立って歩きたい。
それが切実なる願望

もし、それが叶ったとしても、少し風が吹けば倒れてしまうだろう。
普通に歩ける人なら、雨や風ごときには、余程でなければ負けない訳だけど
それは叶わぬ事だった。

1日4合なんてとんでもない。
でも、賢治にとっては、やっぱり4合って書きたかった。
そこは、改ざんしちゃいけない部分だと思う。

切実な願望から始まるけど
後半にかけて、どうだろう。
やっぱり、自分の事なんてどうでもいいや、って
気持ちが変わっていく。

銀河鉄道の夜でテーマだった「ほんとうのさいわい」

皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

[歳時記]シリーズはこちら(少し下げてね)

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