[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
の続きです。

長時と政村
北条執権5代の時宗は、独裁体制を確立。
ところが、それに満足しちゃったんだろうか
元々健康には不安があったということもあり
息子の時宗に執権を譲り、自分は出家
まだ30歳なんだけど。

そして、時宗はまだ幼児。
天皇ならまだしも、実際に政治を司るのが執権だから
いくらなんでも無理があると思い直して、
叔父さんの長時(6代)に時宗が成人するまでの中継ぎを依頼

ええよ

そのあと、時頼は37歳で亡くなる。
やっぱり、健康上の問題だったんですね

「中継ぎ」だとの約束は
えっ、何の事でしょう と言っちゃって、
自分の子供に執権を譲っても良さそうなもんですが
良い人なんですね。そうはしなかった。

なんと時頼が亡くなった1年後、35歳と若かったんですが
自分も病に倒れ、亡くなっちゃいます。

まだ、時宗、成人しておりません。

北条家の人たちは寄ってたかって良い人なんでしょうか
今度は、政村(7代)が中継ぎ承知でかって出ます

政村は元々60歳のおじいちゃん。

ようやく時宗成人
はいどうぞ

時宗(ときむね)
北条執権は8代の、時宗に移ります。
出ました、時宗。
時宗と言えば、蒙古襲来です。

外国軍が侵略のために、日本にやって来たのは
長い日本の歴史の中でも、蒙古襲来と太平洋戦争のみ。
我々の世代は、元寇(げんこう)って言っていたけどなあと思って調べてみると
どっちでも、良いらしい。

金がモンゴルに滅ぼされた。
そのまま南下して南宋も風前の灯

へえ

この時点ではまだ対岸の火事

南宋が何とか踏ん張って持ちこたえたので
矛先を朝鮮の高麗に変えた。
1258年、高麗が降伏

そうなるともう目と鼻の先

1260年、モンゴル皇帝が第5代のフビライハンに変わる
フビライハンはイケイケ

もう一回、南宋へ向かう。

その一方で、日本の太宰府に使者を送る

貿易しませんか。

ほんまに? なんかとても高圧的な文章ですけど。

分かりました? 実は降伏しなさいという意味です。

あらま。そういうことなら、一大事。
鎌倉に聞いてみますんで、少々お待ち。

この時、正確に言うと、まだ時宗になっておらず、執権は7代政村
緊急幹部会議

どうしましょう

どうもこうも、はい、降参します、って言うわけないよね

おっしゃる通り

じゃあ、降参しません、来るなら来い、と返事しましょうか

ちょっと待ってよ。
それもダメでしょう
こうしましょう。
返事しない、って事で。

賛成ーっ

怒らせちゃいました。
でも、フビライハンは南宋で忙しいので
日本には再三の使者

日本は一貫して、「返事しない作戦」

1273年、南宋の襄陽(じょうよう)と樊城(はんじょう)が陥落
完全には落とせていませんが、
フビライハンはほぼ大丈夫と考えたのでしょう。
とうとう、矛先が、日本に向いてしまいます。

文永の役
1274年。ぶえーっ。文永の役

高麗に将軍の洪茶丘(こうちゃきゅう)を派遣して、戦艦を作らせる。
約900隻が、朝鮮半島の合浦に集められた。
その船に乗り込む兵力は、元軍と高麗軍合わせて3万人。
総司令官はモンゴル人の都元帥クドゥン(忽敦)、
副官は、漢人の劉復亨(りゅうふくこう)と高麗人の洪茶丘である

10月に出港した元軍は、瞬く間に、対馬、壱岐を制圧する

さあ、どうする

このあとは、シリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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