[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
の続きです。
経時
執権4代、1242~1246
執権の3代泰時のあとは、その孫の代になります。
泰時の息子、時氏は、泰時より先に亡くなっておりました。
経時が執権に就任したときは、まだ19歳
執権も、得宗家(北条氏の本家)の当主も引き継ぎました。
この時の将軍は、摂家将軍頼経
頼経は25歳なので、お飾りではなく重みを持ってくることになります。
1244年4月、頼経は征夷大将軍の職を子の頼嗣(よりつぐ)に譲り
天皇家でいうところの、院政みたいな事を始めます。
大殿と呼ばれます。
将軍の職も世襲されるという実績を作りたかった。
そして、経時や時頼の妹、檜皮姫(ひわだひめ)を頼嗣の奥さんにします。
ここに、息子が生まれれば、より強固に将軍と執権の親戚政権が出来上がるという算段
順調には行っていたんだけど、長くは続かなかった。
肝心の経時が重病に倒れる。
経時としては、息子も生まれているので
その息子に継がせたいんだけど
6歳なので、いくらなんでも幼すぎる
ここは、執権と、得宗家の当主を分け
執権は弟の時頼に、得宗家の当主は息子にと考えた。
政治は大殿の頼経もやる気になっているし、うまく回るだろう。
時頼
執権5代、1246~1256
執権を引き継いだ時頼
経時が考えていたのとはちょっと違うタイプだった。
この時点での時頼は、20歳だったんだけど
とってもやりたがり
大殿だぁ?
得宗家当主は息子にだぁ?
冗談ポイ
特にカチンと来たのが、九条道家が、御家人の三浦泰村を執権に推していたこと
道家は頼経のお父さん。
結局、経時は、時頼に執権を譲った1か月後亡くなってしまった。
その1か月半後、
道家と頼経は失脚させられる。
はい、得宗家も私が当主ね
さらに1年後の、1247年
宝治合戦と行って、三浦泰村も討たれてしまう。
これによって、得宗家の独裁体制が固まった。
時頼は、直接院の後嵯峨と連絡しあいながら政治を進めていく。
これを可能にした背景には後嵯峨天皇側の事情がある
それまで、後堀河天皇、四条天皇と危なっかしく、ギリギリで皇統を繋いで来たけれど
後嵯峨になって、子供複数の余裕状態
この中から一人将軍出しちゃっても良いよ
天皇の息子が将軍になる宮家将軍が現実のものとなる
そうだったら、もう摂関家からの将軍は要らないね、と強気に出れた。
宗尊親王(むねたかしんのう)です
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