[首相]29 鈴木貫太郎。永遠の平和、永遠の平和

鈴木貫太郎

海軍出身 1945年4月~8月

太平洋戦争を終わらせる為の内閣です。

海軍で
日清、日露戦争で大活躍。
鬼の貫太郎、鬼貫と呼ばれる。

大正3(1914)年、海軍次官に就任
海軍の人事に大なたを振るう

62歳で、自分としても良く頑張った一生、悔いなし、と引退

ところが、牧野伸顕内大臣がそうはさせじと、引き抜き
侍従長(じじゅうちょう)に抜擢される
天皇にお仕えする仕事です

天皇が一汁二菜しか口にしていないと分かるや
それ以上のものを口にしてはならんと、三汁目は断る

天皇の信頼をどんどん得ていき
重要な片腕となる

天皇の意思に忠実でありたい。
その気持ちが強くて、戦争へひた走ろうとする面々とことごとくぶつかる
そんな人たちからは天皇を操って悪政を行おうとする「君側の奸」だと言われる

1932年2月26日のあの日
青年将校たちが鈴木邸の垣根を乗り越えた

銃を構えて、迫ってくる兵士たちに
「理由を聞かせてもらいたい」

指揮官は「時間がありません」
やれっ

ババババーン
4発命中し、おびただしい出血をして倒れた。

奇跡

一命をとりとめる

復帰した鈴木は侍従長を退任
兼務していた枢密顧問官選任となる

太平洋戦争
太平洋戦争が勃発し
最初だけは良かったものの、どんどん悪い方向に行く

首相は東条英機がやめ
あとを受けた小磯国昭も何も出来ずに辞任。

そうしている間に、戦況はさらに悪化
もう、「敗戦」以外にあり得ない状態

私ですか

この時、鈴木は77歳

天皇の意思が強く働いた

最後に一番重要な「仕事」は
一番信頼できる人にやってもらいたい。

カモフラージュ
課せられた仕事が何であるか分かっている

日本にとっても、おそらく自分にとっても最後の仕事

あの悪夢がよみがえるが
考え方を変えれば、あの時死んだ身ではないか

その時までは邪魔をされずにこぎつけなければならん
表向きは戦争継続を表明してカモフラージュ

沖縄が制圧され、本土への空襲もさらに激しさを増す。

1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ、イギリス、中国の名において
日本に対して発された全13か条から成る宣言

ポツダム宣言です。

鈴木としては即時受諾だったが
どうにも合意が得られない

「黙殺する」との声明を出さざるを得なかった

8月6日、広島に原爆投下
8月8日、ソ連が日本に宣戦布告

一刻の猶予もない

8月9日夜、鈴木は急遽皇居地下の防空壕にて
御前会議を召集

会議で阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、
連合軍による占領を小範囲、短期間にするなどの条件つきの受諾を主張した。

一方、それでは連合国側が受け入れないと危惧した東郷茂徳外務大臣、
米内光政海軍大臣、平沼騏一郎枢密院議長は、
天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件とする受諾を訴えた。

鈴木絵理はみずからの考えを述べない。

平行線

翌10日午前2時を過ぎた。

鈴木が立ち上がり、玉座近くに進んで奏上した。

「議をつくすこと数時間に及びましたが、
事態は一刻の猶予もない状況です。
このうえは陛下の思し召しをおうかがいし、
本会議の決定といたいしたいと思います」

3対3なのだから、鈴木が外務大臣側に賛成すれば多数決は成立する
ただ、鈴木にすれば、最も重要な結論を決めるのは多数決ではないと思ったろう

下打合せはなかっただろうが
信頼しあっている二人だから分かっていた。

「私は外務大臣の意見に同意である」

終戦
天皇による玉音放送が流される8月15日の朝、
鈴木の私邸は終戦に反対する国民神風隊の襲撃を受けたが、
鈴木と家族は間一髪で逃れることができた。

大役を終えた鈴木内閣は、その日、総辞職

警察の指示で鈴木と家族は転居を繰り返し
3か月後にようやく故郷の関宿町に落ち着くことができた。

その後、鈴木は請われて枢密院議長に一時復帰もするが、
退任後は宿で畑仕事を楽しみながら余生を過ごした。

3年後の1948年(昭和23) 4月17日
「永遠の平和、永遠の平和….」
うわごとのように2度唱えたのち、世を去った。

80歳だった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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