[首相]34 芦田均。前項の目的を達するため

芦田均

戦後で5人目の首相です
覚え方は、「投資で良かった明日でよしよし」
東久邇宮稔彦・幣原喜重郎・吉田茂Ⅰ・片山哲・芦田均・吉田茂Ⅱ~Ⅴ

芦田均は、1887年(明治20)11月15日、京都府で
に3男3女の次男として生まれた。
5歳のときジフテリアにかかり、家族の献身的な看病で全快するが、
実母のしげ、姉のはる・よしの3人が感染して命を落としてしまった。

のちに「一番に悔いの多い時代」と書き記したように、
このことは芦田の心に深い傷跡を残した。

子供の頃は文学少年。
文学は生涯大きく関わっていく。

東京帝国大学法科大学仏法科に入学した芦田は、文芸同人雑誌の第2次『新思潮』に寄稿し、
夏目漱石の門下生たちとともに新しい文学運動に参加していた。
『新思潮』での経験は芦田の文筆の才にみがきをかけ、
一高以来の弁論部での活動は、日本の政治家のなかでも数少ない雄弁家へと成長させた。

外交官
東大在学中の1911年(明治44)9月、外交官試験に合格した芦田は、
外交官としての一歩を踏み出す。

1919年(大正8)1月に行なわれたパリ講和会議には、
西園寺公望・牧野伸顕両全権の随員として参加した。
60余名の随員のなかには吉田茂や外務省同期の重光葵もいた。

政治家に
1925年(大正14)9月に1等書記官としてトルコ大使館に赴任するまでの間に、
芦田は省内で月刊広報誌『海外事情』を発刊し、
みずからもロシア革命を題材にした『怪傑レーニン』を、
白雲楼学人のペンネームで出版した

小説も書ける外交官です
外交官として華々しい活躍を見せるものの
「外交官の手では、到底、難破船を救うことができない」
と政治家へ転身する
小説も書ける政治家です

帰国した直後の1932年2月20日に行なわれた総選挙に立憲政友会から出馬、
衆議院議員となった
東京報知新聞の客員論説委員を委嘱され、
翌年1月には、ジャパン・タイムズ社の社長にも就任した

物書きにはずっと携わっています

戦後は、1945年(昭和20)10月、親欧米リベラル派として幣原喜重郎内閣の厚生大臣に就任。

11月には、鳩山一郎らと日本自由党創立に参加した。
1946年(昭和21)5月に発足した第1次吉田内閣で検討された憲法改正草案に対して、
芦田を委員長とする帝国憲法改正案委員小委員会で、
草案9条の文言に修正が加えられた。

第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の冒頭に、
芦田が新たに挿入したのが「前項の目的を達するため」という一文が、
今日においても9条の解釈をめぐる重要な争点のひとつとなっている。
自衛のための戦力保持はOKと考える人の根拠ともなっている

芦田は、吉田政権の「官僚内閣」を民主主義的政権とは異質なものとして、自由党を脱党
民主党を結成する

首相へ
総選挙で社会党が第一党となるも、過半数に及ばず
社会・民主・国民協同3党からなる連立政権ができる

芦田は片山内閣の副総理兼外務大臣として入閣

総辞職した片山内閣の後継として、
いよいよ順番が回ってくる

首班指名では、投票総数421票のうち、芦田均216票、吉田茂180票で、芦田が指名された。
ところが、参議院では、逆転した。
投票総数218票中、吉田茂101票、芦田均99票。僅差で吉田が勝利。
ふたりとも過半数に達しないので。決選投票が、おこなわれ
そこで216票のうち、吉田茂104票、芦田均102票で、吉田が指名された。

衆議院と参議院で指名が分かれた場合
両院協議会が開かれるが
それでも決まらなかったため、衆議院の指名が優先された。

マッカーサーとの関係も良好だったが、国内はインフレが加速し、
官公労の労働争議が激化していた。
マッカーサーは芦田にスト禁止の書簡を送り、
これにより公務員のストライキを禁止する政令201号が公布された。

副総理の西尾末広に土建業者からの政治献金授受が発覚、7月に西尾は辞任する。
さらに、復興金融金庫の融資に絡からむ昭和電工の贈収賄事件が政界・官界に飛び火し、
10月7日、道義的責任を理由に芦田内閣は総辞職した。

12月7日に芦田も逮捕されたが、
翌年の総選挙に獄中から立候補して当選。

以後、改進党・日本民主党・自由民主党の結成に参加するなど、
政界の重鎮として活躍し続けた。

芦田の無罪が確定したのは、1958年(昭和33)2月11日である。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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