[ことば日本史]さむらい

「ことば日本史」平安時代から

さむらい
身分の高い人に仕えることを「さぶらふ」という。その名詞化が「さぶらひ」。

貴族が警護のためにやとったものたちのことをそう呼んだことから生まれた名称だった。
だから、もとは主君に仕える近侍・近習の総称として広く使われていた。
ということは、今日の「アッシー」とか「バシリ」とかに似た、
侮りをこめた呼称だったわけだ。
したがって中世までは、侍は必ずしも武士のことをさしてはいなかった。

平安時代から鎌倉時代にかけては公家・武家を問わず、
六位以上の位をもつ近待者をさす言葉となり、
やがて官位の有無にかかわらず、
その有資格者やその家族をさすように広い使われ方をするようになる。
むろん庶民よりも優遇されていた。
侍がすなわち武士のことになるのは、江戸時代になってからのことである。

では、武士はどのようにして生まれてきたのだろう。
寛平7(895)年から延喜元(901)年にかけて、東国では群盗の蜂起があいついだ。
馬に荷を積んで運ぶことで利をあげていた諸国の富豪層からなる
「僦馬の党(しゅうばのとう)」が、
当時の国制改革によってそれまでのように利益を得られなくなったため、
組織して賊となったのだという。
この群盗を鎮圧するために軍制の改革が行われ、
押領使(おうりょうし)という群盗追捕の指揮官が任命されるようになった。

押領使に任命されたのは武芸に秀でた人で、
国内武士を動員して反乱を鎮圧したが、その名は定かでない。
明確に押領使に任命されたのが明らかなのが、平高望 藤原利仁 藤原秀郷の三人

この三人こそ群盗力との激しい戦闘を通して新たな個人戦術を開発し、
武名をあげた武士第一号といってよいだろう
三人のうち藤原利仁は、越前へ帰り、子孫が北陸武士団を形成する。

平高望は、桓武天皇の曾孫で、桓武平氏の祖となる。
平氏の大本ですね。
藤原秀郷は藤太の別名で大ムカデ退治の伝説でも有名だが、
後の天慶の乱では平将門を討つことになる。

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