[足利将軍]4義持。安定期とは言える

[足利将軍]3-7 足利義満。そんな殺生な
の続きです。

史上最強の政権を作り上げ
朝廷も含めた日本のドンたる地位を確立した義満
後継者には、義持(よしもち)を早い段階から指名し
将軍も譲ったにも関わらず、実権は渡さず自分で握ったまま

ところが急に、弟の義嗣(よしつぐ)の方が気に入って、溺愛ともいえる状況
破格の出世をさせて、天皇の猶子(ゆうし)にまでさせた

おそらく、義嗣にあらゆるノウハウを伝授し
後継者をチェンジしようと考えていたと思う

なんと、義満自体全く予想していなかっただろうが、病気にかかると休止してしまった

ありゃま、火種だけ作って、あとどうすんのよ

義満を忖度するならば、義嗣なんだろうけれど・・

残された有力大名たちが話し合い

義持で行こう

急に取立てられた義嗣には、大名たちは馴染みがない

義嗣はあれよあれよというまに持ち上げられただけだから
後ろ立てが無くなれば諦めるしかありません

義持も可哀想な弟を丁重に処遇
一件落着

義持、目の上のたんこぶが無くなった
ようやく俺の出番

義満の政策を取捨選択
どっちかというと「捨」の方が多い
室町殿は捨てたし
朝廷より上に立つ態度は取らなかった
天皇を尊重し、私は従順な臣下です

尊氏、義詮はせっかくスタートしたのにぐちゃぐちゃの内輪もめをしてしまったので混乱期
義満は、たぐいまれなる能力によって南北朝時代も終わらせての確立期
とすると
義持は、安定期と表現できるだろう

父義満がスーパー過ぎたので
自分の身の丈に合う事を着実にやっていく事に徹したのが良かったのだろう

ただ、その安定は、京都を中心にした近郊に限定されたものだった

南朝を引きずった分子は南にいたし
西国でも安定とは言えなかった
そして関東

京都は将軍、関東は鎌倉公方と役割分担して、尊氏の子供を京都と鎌倉に分けた
にも関わらず
関東の鎌倉公方が何かと京都の将軍と対立するようになってきた

そんな中で、予想外の出来事が起きる

上杉禅秀の乱
鎌倉公方が部長さんだとすると、副部長さんとも言える、関東管領の上杉家
元々は、上杉家内部の主導権争いだったんだけど
支えるべき部長さん鎌倉公方に対してクーデターを起こす事になる
上杉禅秀の乱

京都の将軍側もクーデターは沈静させる必要があるので
何がどうなっているのか調べろ、ってことになる

事の真相が次第に明らかになってくると困った事が分かってきた
京都の将軍の周辺の有力大名の名前が上がってきた

室町幕府って、将軍一人が政治を行うというより
有力大名たちが力を合わせて、協議しつつ将軍を支えると言う集団統治体制

だから、協議で義嗣ではなく、義持を選んだ

その有力大名が反乱に加担していた
それが一人であれば、そのものを反乱分子として処罰すれば良い
ところが複数であった
処罰するとなると、本人が本人を処罰するってことになる

よし、聞かなかった事にしよう

さらに、関連して名前が上がったのが、義嗣
えっ、将軍は諦めたが、義持に丁重に扱われて、万事めでたしじゃなかったの?

将軍は鎌倉公方とうまくいってはいなかったが
こと上杉禅秀の乱に関しては、鎌倉公方の持氏を支持すると正式表明した明くる日
なんと、義嗣が京都から逃げ出す

えっ、逃げるってどういう事、
やましい事があるってこと?

有力大名たちは自分達で自分達を処罰できないが
義嗣なら、責任をおっかぶせる事ができる

義嗣は捕まえられ幽閉される
一年ほどの幽閉の後
義嗣死亡
自害したのか殺されたのかまでは分からない

義嗣、最初は出家していたにも関わらず
義満にやたら気に入られ、呼び戻される
そして、義満死去ということでハシゴを外される
その後、丁重に扱われて平和だったはずなのに
有力大名達が自分達が生き残るためのエスケープゴートになり殺された

義嗣、出家したままなら、平穏な人生を送れたのに

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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