[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど

今日午前中、図書館に行って、何冊か本を借り
その中の「勝海舟と江戸東京」を読んでおりました

お昼ご飯を作って食べると、カミさんから
あとはお出かけしていいよ
晩ごはん作りに間に合うように帰ってよ

勝海舟でふと思い出した
以前、洗足池のウォーキングしたとき、
勝海舟記念館なるものを作っていて、もうすぐオープンってところだったな

よし、行ってみよう

行きの電車の中で、「勝海舟と江戸東京」を必死で読んで予習です

勝海舟記念館
なぜ大田区の洗足池に勝海舟記念館があるかというと
晩年に、洗足池のほとりに「洗足軒」なる藁葺き屋根の邸宅を作り、移り住んだから。
お墓もすぐ近くです
洗足軒跡地の一部に、勝海舟関連の資料等を管理する清明文庫なるものが出来たんですが
主催団体の清明会が高齢化等で解散し、東京府に寄付
長らくそのままになっておりましたが
令和になって、勝海舟記念館としてオープンいたしました

西郷隆盛とかはシリーズ化して書きましたが
勝海舟は今まであまり書いてきませんでしたね

ガイドブックも買いましたので
展示内容も踏まえつつ、勝海舟シリーズを数回に渡って書いていこうと思います

生い立ち
勝海舟の曽祖父は米山検校(よねやまけんぎょう)という人
この人がすごい人で、越後の貧農の家に生まれ、盲人だったんですが
江戸に出てきて、針医師を始める
頑張って稼いだお金を元に、金貸業を始め富を気づく

江戸時代って士農工商の身分制度がきっちりあるイメージだけれど
農民だって、金さえあれば旗本株というのを買って武士になれる
米山検校は息子の平蔵のために男谷(おだに)家という旗本株を買って
息子は旗本の男谷平蔵になる
平蔵の長男は男谷家を継ぎ、
三男は小吉。男谷家は継げないので、やはり旗本の勝家に養子に入って勝家を継ぎます
勝海舟のお父さんです。

ところが小吉がとんでもない不良父ちゃん
せっかく旗本なのに仕事もせず放蕩生活
お陰で勝家は火の車

怒った平蔵が、小吉を座敷牢に閉じ込める
生活は改まらなかったけど、反省はした
分かりました。私は隠居して、家督を息子の麟太郎に譲ります

勝海舟は色々名前を変えて、この時は麟太郎なんですが
ややこしいので、ずっと海舟で通しますね
この時海舟は16歳

男谷家の方の跡取りは男谷精一郎といって、
直心影流という剣術を継ぎ「剣聖」とまで称せられるすごい人
海舟からは、いとこになります
海舟も、直心影流の道場に入門し、ひたすら剣の道に励みます

18歳の時、江戸城内で西洋の大砲を目にし
あそこに書いてあるオランダ語を学びたいと考えます
永井青崖等の蘭学者の元で学びます

23歳で結婚、24歳で赤坂に引っ越し

蘭学書の翻訳等で生計をたてます
ドゥーフハルマという蘭和辞書も写本します
これ、びっくり

ドゥーフハルマって江戸の勉強をしていると必ず出てくる重要な本
蘭和辞書ってドゥーフハルマしかないので
蘭学者たちは、分からないところはこの辞書を引くしかなく
順番待ちで行列が出来るほどだったとか
勝海舟が写本していたとは知りませんでした

自分でも氷解塾なる蘭学塾を開きますが、教えていた訳ではなく
先生は他の人に頼んで経営だけ
自分はというと、あの佐久間象山のところに弟子入りします
後に海舟は佐久間象山の事をあまり良いように書いていないんですが
妹の順は佐久間象山の嫁になり、親戚となりました

そして、31歳の時、1853年、ペリー来航です
ここから大きく時代が動き、勝海舟の人生が動きます

続きはシリーズの次回ね

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