[足利将軍]6-2 義教。恐怖政治の果てに

[足利将軍]6 義教。くじ引きで選ばれた将軍
の続きです

義教(よしのり)
将軍になってそうそう、正長の一揆というのが起きる
さらに、播磨の土一揆
求心力が低下していく

元々、大名たちに支えられての室町幕府
その中で、政治に無関係だった義教が、何とか地盤を築こうと試行錯誤

前半は、それなりに味方も作り、バランスを保ちつつ進んでいっていたのだが
関東の持氏との戦いあたりから変わってくる
本来、強気なのでバランスを保ちつつ、というのは性に合わない

大名たちに対して、圧倒的に優位に立ちたくて、大名たちの勢力を削ごうとする
大名内での家督争い等に積極的に介入し、内輪揉めの火に油を注ぐ
これが、後の応仁の乱に繋がっていく

さらに「恐怖政治」が始まる
何だかだと因縁をつけ、要職から外したり、殺したり

元々くじ引きでなった将軍
引け目があるなかで、何とか大名たちに溶け込もうとしていたのに
糸が切れちゃったのかも知れない

義教が主導する幕府政治に直接的にもっとも関与できたのは管領細川持之
そして侍所赤松満祐(あかまつみつすけ)

重臣は、管領(かんれい)と呼ばれる副総理的な役割の細川氏を中心とし
畠山、山名、斯波(しば)
次あたりに赤松氏

赤松満祐は侍所という重要な役職についていたので、義教を良く支えた
少なくとも前半は義教の最も頼りになる人物だったと言える

前回お話しした富士旅行の時は、不在の間京都を守るために京都に残る
その少し前、赤松満祐の領地である播磨に旅行し、手厚い饗応を受けている
正直、富士旅行のお供をするには大名の経済的負担は大きく
京都に残る赤松満祐に対しては、同様に経済的負担を負わなければ、他の大名とバランスが取れないということがあったのだろう

その対応もして、義教を支えてきた赤松満祐なのに
義教が満祐ではない赤松氏(赤松貞村等)に近づく動きを見せた

まさか、私にもか
裏切られた

永享13年2月17日、改元定が行われ、「嘉吉」と改元された
改元されて間もない、嘉吉元年6月24日
満祐の子息の赤松教康の屋敷で諸敵平定の賀宴が催されるということで、
室町殿義教は午後二時すぎ、教康のもとを訪れた

御相伴として管領細川持之、畠山持永、山名持豊、細川持常、大内持世、京極高数らの大名が在席した。
余興として猿楽三番が演じられ、盃酌も五献に進んだところで、義教の座席の後障子が開く

覚悟っ

甲冑を着た武者数十人が乱入し、義教を殺害
義教の近習である細川持春・山名熙貴はともに激しく渡り合ったが、持春は負傷し、熙貴は落命

赤松教康は屋敷に火をかけ、義教と熙貴の頸を剣にさして本拠の播磨へと下国
満祐は現場にこそいなかったが、赤松教康にすぐに合流した

家臣が将軍を殺害。嘉吉の乱と呼ばれる前代未聞の大事件
本能寺の変を連想するが
本能寺の変と違うのは、その後の大名たちの動き
当然即刻対応すべき、赤松征討に迅速に動く大名がいなかった

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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