[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
の続きです

嘉永6(1853)年、ペリー来航です
幕末の多くの志士たちもそうですが、ここから勝海舟の人生が大きく動きます
31歳の時です。

衝撃を受けた海舟は、「海防意見書」を
幕府と水戸藩に一通ずつ送った

その内容がかなり良かったのでしょう
以降、蘭書の翻訳をさせてもらうようになり
長崎に、海軍伝習所という大型船の訓練学校を作る時
幹部候補生としてお声がかかる

初代講師はペルスライケン

2代目には、ヤパン号という船にのって、カッテンディーケがやって来る

ヤパンというのはジャパンと同じなので「日本号」という意味
幕府が10億円でオランダに発注して納品された
後に咸臨丸(かんりんまる)と名を変える

33歳から37歳までの4年間、みっちり技術を習得
その時の海舟のノート
難しそうな内容が、オランダ語でノート取ってるんです

その間、日米修好通商条約が締結されます
アメリカで条約を批准するため、ポーハタン号でアメリカ人たちが帰る
新見正興が日本側の正使として同乗

それだけでも良かったのですが
もう一隻、随伴船として付いていっても良いでしょうか

まあ、良いけど

ありがとうございます

さあ、咸臨丸がいよいよ外洋に出て実践で試せます

艦長、勝海舟
技術アドバイザー ブルック大尉
日本人としては福沢諭吉やジョン万次郎も乗り込みます

この船の中の事が勝海舟記念館で映像で流れるんですが、かなり感動的です

出発前、勝海舟が病気になってしまう
普通なら諦めるほどの発熱

ただ、この日のためにずっと訓練してきた訳です
船の上で死ぬなら本望
無理を押して乗り込みます

海は大荒れになった
木の葉のごとく上へ下への咸臨丸
日本人たちは例外なく船酔いでなすすべなし

元々病気の勝海舟は船酔いが重なり、ベッドから起き上がる事すらできません

船はブルック大尉を中心としたアメリカ人たちが操縦しているのみ

せっかくの実践訓練なのに全く意味をなしていない
ブルック大尉が勝海舟のベッド脇に来た

私に全権を委任して欲しい

状況から当然なのは分かる
ただ、
艦長の誇り
日本人としての思い
今までの苦労

捨てよう
そんなものは、自分だけのちっぽけなこだわり

日本人乗組員が経験できる貴重な時間を最大限に活かさねば

よろしくお願いします

後にブルック大尉は、その後の日本人たちの働きを絶賛している

サンフランシスコに着いたあとは海舟も体調回復
積極的に見て回り驚きの日々
蒸気機関のお土産

面白いのがサンフランシスコで撮ってもらった写真

頬のあたりがほんのり赤く塗られているの分かります?
海舟自身が塗ったらしいです
お茶目!

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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