[首相]40 田中角栄。苦学の時代

首相シリーズ
いよいよ角三福大鈴中(かくさんぷくだいれいちゅう)時代に入っていきます
1972年からちょうど2年ずつ首相が変わっていく

まずは田中角栄から

良くも悪くも、戦後の首相の中で最も強烈な印象を残したのではないでしょうか

当時「まぁ、そのぉ~」をみんな真似していました

Amazonで田中角栄の本を検索するとおびただしい量が検索される
最近、再評価され、名語録的な本がずいぶん出ました
良い面と悪い面をきっちり区別すれば
再評価も良いんじゃないかと思います

まずは生い立ちから

生い立ち
1918年(大正7)5月4日、田中角栄は新潟県刈羽郡二田村(現柏崎市西山町)で産声を上げた。
「私の村は、海岸線に沿った小高い山並みと、柏崎から長岡に続く山並みとの間にある小さな平和な村だった」

田中は姉2人、妹4人に囲まれたたった1人の男子(兄は幼少時に早世)であり、
周囲に可愛がられて育ったという。
父は牛馬商を営んでいたが、事業の失敗から家の経済状態は窮地に追いこまれる。

田中の尋常小学校での成績は非常に優秀だった。
だが田中は、家計を支えるために朝から晩まで畑仕事をしている母の苦労を思い、
中学進学をあきらめ、尋常小学校の高等科へ進んだ。
1933年(昭和8)に卒業すると、土木工事現場で働いたのち、
県の役所である柏崎土木派遣所につとめる。
このころ田中は小説家になりたいという夢を抱いており、
懸賞小説に応募して入賞もしている。

郷里で1年ほど働いたのち、1934年(昭和9)、田中は青雲の志を抱いて上京する。
知人の紹介で、国策会社、理化学研究所(理研)の総帥、
大河内正敏子爵の書生として学校に通えるというのだ。

ところが、東京に着いて大河内を訪ねたところ、
奉公人にていよく門前払いをくわされた。

失望した田中は土建会社の井上工業に住みこみで働きながら、
神田にある私立中央工学校の夜間部に通い、設計などを学ぶ

土建会社の小僧の生活は忙しい。
朝は5時に起きて会社の掃除から始め、
夕方5時までみっちりと現場を手伝い、
夕方6時の授業に間に合うように自転車を飛ばした。

そんなある日、現場監督と喧嘩して井上工業を飛び出したのが16歳。
その後、田中は職を転々とした。
保険雑誌の見習い記者になったときには、
保険に関する文献をむさぼり読んだという。

田中は社会のなかで生きた知識をどんどん吸収していった。
この仕事に直結した勉強が、
のちに、官僚も舌をまくほどの法律知識やデータ分析力となって発揮されるのだった。

苦学と懸命な労働の甲斐あって、
田中は19歳にして「共栄建築事務所」を設立して社長となる。
このころ偶然にも、上京のきっかけとなった理研の大河内総帥と出会い、
理研関連の工場設計などを請け負うようになった。

口髭をたくわえた若社長の田中が順調に業績を伸ばしていたとき、
時代は戦争へと向かっていた。
1939年(昭和14)に田中は徴兵されて盛岡騎兵第3旅団に入隊。
だが、駐屯した満州(中国東北部)で肺炎に倒れ、
1941年(昭和16)に内地に召還された。

このとき田中が属した連隊は、
終戦間際に満州に侵攻してきたソ連軍と戦い全滅している。
肺炎にならなければ、田中もまちがいなく戦死していただろう。

田中の病は重く、一時は危篤に陥ったが幸運にも助かり、
除隊後ふたたび設計施工の仕事に戻った。
事務所を借りて多忙な日々が始まった。
このときの家主の娘がのちのはな夫人となる。
1942年(昭和17)の桃の節句の日、ふたりは結婚。

田中はその夜、に3つの誓いをさせられた。
「出ていけといわないこと」「足げにしないこと」「将来、あなたが二重橋を渡る日があったら自分を同伴すること」

1943年(昭和18)からの3年間に、
田中は企業人として大きく成長する。
まず個人事務所を「田中土建工業株式会社」に組織変更し、
年間施工実績で全国50社のうちに数えられるようになる。

1945年(昭和20)、田中は理研に関係する工場を朝鮮に移設する大仕事を請け負い、朝鮮に渡る。
そして終戦を朝鮮で迎え、まっさきに帰国したのである。

田中が東京に帰ったのは終戦の10日後である。
幸運だったのは会社の事務所、住宅、寮などが焼けずに残っていたことだった。
田中の会社は戦後復興の建設ラッシュの波にのり、
順調に業績を伸ばした。
このとき、会社の顧問に迎えていたのが政界の大物、
進歩党の大麻唯男であり、大麻の勧めによって田中は政界への転身を決意する。

続きはシリーズの次回

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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