[天皇]103 後土御門天皇。貧乏だけど一生懸命

天皇シリーズ、戦国時代に入っていきます

後土御門天皇
1464~1500年

寛正5(1464)年、後花園の譲位を受けて、後土御門天皇が践祚(せんそ)した
後花園天皇の第一皇子で、諱は成仁
16歳で親王宣下を受けて実質的な皇太子となり、
翌年に元服、践祚の時は23歳である。
そのあとすぐに、応仁の乱が勃発した

平安時代後期の院政期以来、天皇が比較的若い頃に譲位し、
自らは院(上皇)となって「治天の君」として政治を行うことが慣行となっていた。
後土御門に譲位した後花園まではその慣行が実現しており、
当然、それ以後も続けていくべきものと考えられていた

応仁の乱が続く中、
後土御門は政治に嫌気がさしたこともあり、
何度も譲位すると言い出した。
しかし、周囲から止められ、その都度、断念せざるを得なかった。

応仁の乱は戦闘が京都で行われたので、
多くの公家は京都を離れてしまっていた

そんな時に、譲位や即位を行う余裕はなく、
「院政」の慣行を維持することが著しく困難になる。

天変地異や疫病が止むことを願って行った長享から延徳への改元も、
年号を選定する「年号勘者」が地方に下っていたため、
簡単には実現できなかった。
幕府に命じたわずか二千疋(現在の貨幣価値にして約二百万円)の改元費用も、幕府が出し惜しみし、
朝廷で捻出することになった。

天皇の権威と経済力の低下は著しかったが、君主意識は健在だった。
10代将軍足利義材(義稙)が、
公家領などの押領を行った近江国守護の六角高頼討伐を行った時、
後土御門は義材の要請で綸旨を発給し、
「錦御旗(にしきのみはた)」まで下賜している。

錦御旗は、赤い錦地に太陽と月を金銀で刺繍した旗で、
古代以来、朝敵を討つ時、官軍の旗印となったもの。

江戸時代の幕末、岩倉具視が勝手に京都の呉服商に作らせ、
鳥羽・伏見の戦いに勝利したことが有名である。
錦御旗が翻ったのは、この後土御門以来のことだった。

また、朝廷の儀礼や、芸術文化面でもお金がない中で出来る限りの事をやろうとした
普通なら、指示してやらせるようなことも、側近の数人しかそばにはいない
例えば、朝廷の儀礼がどうだったかを調べるにしても、自分自身でやらざるを得ない
連歌についても自分で率先してやったし
笙の練習も頑張った

なぜそんなに貧乏になってしまったかと言うと
朝廷を保護する室町幕府が衰退してしまったから。
幕府に実力がないから、朝廷領を維持することもできず、
年貢があがってこない。
その上、幕府にも朝廷の儀式にあたって献上するお金がない。

とは言え、幕府との関係は良好だった
そもそも、応仁の乱で御所が焼失してしまったため住むところがない
仕方なく、幕府の室町殿に同居させてもらっていた

明応9(1500)年、後土御門が59歳で崩御した。
在位は36年に及んだが、宿願だった譲位はついにできなかった。
関白近衛政家は、「譲位することもなく崩御されたことは前例がないことだ」と嘆いている。

譲位出来なかったばかりではなく、遺骸が天皇家の菩提所である泉涌寺に移された後も、
葬儀がすぐには執り行われないという異常な事態となった。
朝廷には、葬儀費用を出すだけの経済力もなかった。
ようやく幕府から一万疋(約一千万円)が献上され、葬儀が行われた。

天皇制の実態は、後土御門より前と後で大きく変わる
それまでは、在位期間は短めで、コロコロ変わる印象だが
ここからは、貧乏ゆえに在位期間がとても長くなる
即位後初めての新嘗祭(にいなめさい)にあたる大嘗祭(だいじょうさい)に至っては
このあと221年もの間、資金不足で行われていない

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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