7代家継は、可哀想すぎる子供将軍

7代将軍は、涙なくしては語れません。

子供の将軍。

お父さんの家宣が在位たった3年で、風邪引いたと思ったら
そのまま死んじゃった

ちょっとちょっと
もう少し頑張って欲しかったんですけど
私、まだ4歳なんですけど

そして、病弱だった家継
お父さんよりは若干長かったけど
4年間、8歳にして死んじゃった。

この6代、7代親子は合わせても7年という事になります。

その名の通り、家を継ぐために頑張ったのに。
とうとう、ここで、徳川本家は途絶えてしまうことになります。

万が一の時のためにスペアを用意しておきましょ
という、御三家に移ることになります。

紀州の吉宗ですね。

お墓
家継もお父さんの家宣同様、増上寺に埋葬されました。
という事は、掘り返し調査がなされた訳ですね。

子供の遺体、どうだったでしょう。

ところがです。

その小さい筈の遺体。
溶けてなくなっていたんです。
雨水が入り込んで腐っちゃった。

えええーっ
余りに悲しすぎませんか。
はかないって
そんな

どういう人生?
今であれば、幼稚園から小学校2年まででしょう。
友達と鬼ごっこしたり、かくれんぼしたり
おそらく子供らしいことは何一つできず
かと言って、自分なりの政治なんてなところまでも到底行けず
そこで死んだらアカンでしょう。

神さん、閻魔さん何とかならんかったんやろか。

若くして将軍になった4代家綱、左様せい様でも11歳から
それよりちっちゃい。

公武合体
将軍の正室についていうと、3代家光以降は、京都の朝廷側から迎え入れるというのが
恒例になります。

天皇家の和宮が公武合体で14代家茂の正室になったのは超有名ですね。

それより前は、天皇家そのものではなく
宮家からということになります。

ここで、重要な事があります。
実は家茂の公武合体が最初ではないんです。

最初は、この家継。
なんと天皇家から正室をもらう。
八十宮(やそのみや)。

家継が7歳の時。
八十宮はなんと2歳。

うぁちゃー
無茶苦茶ですねえ。

でも7歳と2歳じゃ結婚というのもいくら何でも。
取りあえず結納しましょうと。
ちゃんと結納まで済ませたんです。

あとは元服?を待つばかり。

八十宮の為に、特別の部屋が作られて
その日を待つことになります。

ところが翌年には亡くなってしまうんですね。

亡くなりさえしなければ、公武合体は7代の時点で実現していた訳です。

家継が亡くなって、婚約は自動的に解消とはなりませんでした。
そのまま、八十宮は未亡人としての人生を送り、天寿を全うします。

えちえち
側近はお父さんの家宣の時の間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石にそのままお願いします。
特に間部詮房はピッタリ付いてお世話する。
4歳でお父さんが死んじゃった訳ですから
お父さんの記憶があまりない

厳しく育てるので
怖がる時もあるんだけど
愛情を持っての厳しさだったんでしょうか
それでも間部詮房にべったりなつく。

越前の守なので、えち
帰りが遅かったりすると
えちはまだか

何かというと、えちえち

お父さんを見たのかな

実は背景があって、
えちは、お母さんの月光院と仲がいい
色んな意味でね。

男性は入れないはずの大奥に
何故かよく居る。

二人の母の戦い
怖いです、とても。
お父さんの正室天英院と
自分のお母さん、お父さんの側室の月光院
バトルが繰り広げられます。

あまりに恐ろしいので
この話は次回にいたしましょう

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