江戸の教育、点数なし

江戸の識字率は85%と、当時の世界のどの都市よりも高かったという話はしましたね

今日は手習いという場所についてお話ししたいと思います。

手習い
寺子屋という名前は武士に限定されて許されているので
庶民は、寺子屋とは言ってはいけません
手習いとか、手習い師匠とか言います。
ただ、地域によっても違っていて、関西の方では全て寺子屋と言います。

義務教育ではないので、行っても行かなくても良い
そして、有料
にもかかわらず、ほとんどの人が子供を手習いに行かせる

もし、子供の側で
ヤダヤダヤダ、勉強なんて大嫌い
って言えば
それはそれで
そんなに言うならと
行かなくて済んだんでしょうけど

ほとんどの子供が行っていたということは
子供も、進んで行ったんじゃないでしょうか

行けば友達が居るからっていうのが一番大きいでしょうね
仲間はずれはやっぱり嫌

でも、それだけじゃなく
学習意欲ってあるんじゃないかな
読めないと楽しくない
赤本とか黒本とか言われてるんだけど
子供向けの本

テレビもラジオもゲームも無いわけだから
娯楽って、読むことが多くを占める

中の様子
学年とかクラスとかは無い
大体朝から二時位まで。
6歳くらいから。

ちっちゃな子もおっきい子も同じ部屋
そうなると、師匠(先生)がみんなに向かって同じことをしゃべるってできないから
完全にマンツーマン
師匠が一人一人のところを回っていって
ひとりずつの個別カリキュラム

どっかの学習塾のコマーシャルみたいですね

となると、かなりの数の師匠と手習いの場所が必要なはず?
でも、それほどでもない。
なぜかというと、
実はほとんど、自己学習だから。
朝、師匠が手本を配ったら、あとは
はい、自習
師匠が教えるのは、あくまでも必要に応じて

机も整然と並んでる訳じゃなく
バラバラにてんでな方を向いている
師匠の方を向く必要も無いわけだから。
来た人から勝手に好きなところに机を出す。
椅子はない。

かなりワイワイうるさかったと思います
おそらく、ちっちゃい子は、ほぼ遊びに来ている感覚でしょうから

習うこと
基本は読み書きそろばん
ちいさい頃はいろはにほへと
大きくなってくると、よくある人名、というのが手本になったそうです。

横の手本を見ながら書いていくわけですけど
紙がまだまだ貴重な時代
例えば、最初に、い、って書いたら
次は同じ紙で少しだけ横にずらして、い、を書く
それを繰り返していくので
自分がいったい全体何を書いているんだか分からなくなります。
そして、特別な日がやって来ます。

清書の日

その日はみんな朝からわくわくドキドキ

真っ白な紙に字を書いて良い特別な日です。

面白いなあと思うのは
草書を習うと言うこと
理由は、ほとんどの書き物は草書で書いてあるから。
ただ、階書で書いてあるものがある
公文書。
ということで、武士だけは、階書も習う
あくまでも草書がメインで、副次的
今と逆ですね。

今と違うこと
だいぶ分かってきましたね
今とどう違うか

一つには画一的ではない
そうなると、どうしても、出来ないことがあります。

競争です。

おんなじ事をやらないと競争にならない。
バラバラだから比べられない。

丸とかバツとか、点数とかが一切無い。
点数って競争のために必要なわけですから

私たちが、教育現場で当たり前だと、全く疑ってなかったこと

画一的じゃない手習いになっちゃうと
不可能だったんですね

考え方
でも、できないからという消極的理由ばかりでもない。

そもそも、考え方が違う。

江戸時代って、国家や政治のあり方が根本的に違っていましたね
徹底的に小さな政府で、庶民が自分達で自主的に運営していた。
いわゆるお偉いさんを、全くあてにしていなかった。

同じことがここにも当てはまる
一言で言うと教育ではない。

教える仕組み、みたいなのがどーんとあって
口を開けて、お願いします、なんてなことではない。

あくまでも楽しむため、生きていくために必要だから
必要な範囲で、教えてよ

教える側には主導権はない。
習う側に主導権がある。

そうなると、競争も点数も意味がない
ひとはひと。

僕は私はこれが知りたいの。
これが必要なの。

だよな、坊主。
うん。

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