[歳時記]4/12 パンの日。内緒だよ

4/12
日本ではじめてパンを焼いたのは、
幕末に伊豆韮山の代官で兵学と海防の大家でもあった江川太郎左衛門。

江川太郎左衛門って、代々この名前を受け継いでいて、
パンを焼いたのは、36代目の江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)

出たっ、江川太郎左衛門英龍
江戸をウォーキングしていると、あちこちにゆかりの色んなものがある超常連さん

世界遺産になった伊豆韮山の反射炉を作ったし

ペリー来航後に江戸を守るため、大砲を並べた台場を東京湾の中に作っちゃった

それが今のお台場

また、幕末のそうそうたるメンバーが、
江川太郎左衛門英龍の弟子だったり、孫弟子だったり
とにかくすごい人。

それまでは鎖国令によって禁止されていたパンだが、
軽くて腐りにくいことから兵食として取り入れようという声が強まった。
そこで、江川は1842 (天保135)年4月12日に、
自宅内につくった西洋式のパン窯で試作品を焼いた。
やがてその日がパン業者たちによって「パンの日」とされるようになったのだ。

木村屋のあんぱん
パンと言えば、やっぱり木村屋のあんぱん

明治の10大発明の中に堂々のランクイン
明治になると、木村安兵衛が東京新橋駅近くに日本初のパン店「文英堂」を開いた。
そして西洋のパンに使われるイーストではなく、
酒饅頭にヒントを得た酒種酵母菌を使って日本独自のあんぱんを発明した。

その後、木村は銀座に現在の木村屋の前身となる店を構える。
そこであんぱんは大評判となり、天皇にも献上されることになった。
そして、ちょうど桜の季節だったため、春の象徴である桜の塩漬けをのせたのだ。

このヘソのある桜あんぱんは、現在も人気を集めるロングセラー商品。
原料も製法も当時とほとんど変わっていないとか。

このあたりのいきさつや、ブンばあちゃんの頑張りはとっても感動的
さらに、これも江戸のウォーキングではあちこちにゆかりの地がある超常連の山岡鉄舟の全面的バックアップ
過去に記事にしていますので、こっちも読んでね
木村屋のアンパン。ぶん婆ちゃん頑張れ!

木村屋がなければ、あの歴史的ヒーロー
あんぱんマンもジャムおじさんもいなかったのです。

パン
私はこてこての日本人
朝はご飯に決まっとるがな
食パンだぁ?ふざけんな

若い頃、そう粋がっていたこともありました。

なので、小さな声で言います。

パン、美味しいね

魂を売ってしまいました。
実はまだ、食パンだけは食べられないんですが
それ以外のパン、美味しいわぁ
外人さんも大したもんです。

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[歳時記]4/10 駅弁の日

4/10

4月10日が「駅弁の日」とされたのは
JRが4月に発足したことと、
「弁」の字を分解すると「4と十」になることにちなんだもの。
どうやったら4と十になるのかなあ

〇〇の日は、語呂合わせタイプと初めての記念日が多いけど
駅弁の場合は「初めて」がはっきりしていない。

有力なのは、1885(明治18)年7月16日に上野駅と宇都宮駅のあいだで売られた「汽車辨」

梅干し入りのおにぎり2つと沢庵2切れを竹の皮で包んだもので、
値段は5銭。
当時はもりそば1杯1銭、うな丼10銭の時代だから、
ずいぶんと高価な弁当だったが、それでも大評判になったらしい。

このほかには、1877(明治10)年に神戸駅で売られたのが最初だという説もある。

西南戦争で神戸港から九州へ向かう兵隊用の弁当の余りが駅で売られたらしい。


「べんと~、べんと~、○○名物××弁当はいらんかね~♪」

見なくなりましたね
弁当を買っているうちに列車が行っちゃったという話も
あるあるで盛り上がったものです。

でも、駅弁って今でも健在だし
ひょっとして採算あっているんじゃないか、とも思います。

百貨店だのスーパーだので催される、全国駅弁祭りの多いこと多いこと

駅弁って言われると何だか美味しい気がするのは不思議です。

私がまず思い浮かぶの
富山の鱒寿司かなあ

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[歳時記]4/1 スチュワーデスの誕生。豚小屋の番人?

4/1

「スッチー」の愛称で、男性たちからモテモテの存在だったスチュワーデス。

日本でスチュワーデスが最初に空を飛んだのは、1931(昭和6)年4月1日のことだ。

この年の3月、東京航空輸送会社がエアガール(当時はこう呼んでいた)を募集したところ300名以上の応募があり、その中から厳しい競争率を突破して、
18~19歳の3人の女性が採用され、日本のスチュワーデス第1号となった。

彼女たちの初フライトは、AB1型水上機に搭乗して
東京の大井海岸から清水港真崎沖に至るコースだった。

こうして時代の花形職業についたものの、給料は安く、
大卒男性の初任給の3分の1程度だった。
足代と食事代を出したらなくなってしまうという薄給だったのだ。

世界ではじめてスチュワーデスを採用したのは、アメリカのユナイテッド航空。
1930年に8人を採用したが、彼女たちは全員、
公認看護婦の資格を持つ看護婦だった。

当時のスチュワーデスは、旅客の看護がおもな仕事だったためらしい。

ところで、「スチュワーデス」という言葉にはもともと意外な意味があった。
なんと「豚小屋の番人」。

これが、豚などの家畜の世話をし、食物をやる者ということから、
「主人の食事の準備をする者」という意味になり、
さらに「執事」のことをスチュワードというようになった。
スチュワーデスはその女性形というわけだ。

キャビンアテンダント
最近はとんとスチュワーデスって言わなくなりましたね
関西人は必ず「スッチャデスのねえちゃん」と呼んでいましたが
最近は「キャビンアテンダントのねえちゃん」

先程お話しした、スチュワードの女性形、ってところに原因があるようです。
女性だと特定される職業名は性差別に繋がるんだと。

カミさんは自分の事を絶対看護婦とは言わず看護師と言いますので
そういう世の中の流れなんでしょう。

世の中には男と女がいてうまくいっている気がしますが
区別しちゃいけないようです。

その考え方に馴染めはしませんが
私は素直なものですから、世の中がそうだと言うのなら、そういたしましょう。

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[歳時記]3/25 電気記念日

3/25
電気は、もはや現代生活において欠かすことのできないものだ。
電気の灯らない頃と根本的に生活の時間帯が変わりました。
というか、その前が想像できない。

1878(明治11)年3月25日に日本ではじめてのアーク灯がともった。

アーク灯は、空気中の放電を利用したもので、強い光とともに高熱を発生する。
ただし、当初は電池を電源としていたため長時間持たず、
本格的に普及したのは発電機ができてからのことだった

明治11年(1878年)3月25日、工部省電信局は、
万国電信連合に加盟する準備として東京・木挽町に電信中央局を設け、
その開局祝賀会を東京・虎ノ門の工部大学校の講堂で開催しました。

祝賀会は、大臣や各国行使など150名を越える人々が参加し、盛大に行われました。
夕方、大学校の車寄せに多くの来賓を乗せた馬車が次々と到着し、
玄関から2階の講堂へ案内されていきました。

この日、会場に電気灯を使用するよう、
工部卿伊藤博文から特に命ぜられていた英国人エアトン教授は、
グローブ電池50個を使い、講堂の天井に設置されたアーク灯(「デュボスク式アーク灯」)を点灯するため、
自ら難しい調整にあたっていました。

やがて6時、エアトン教授の合図とともに、
目もくらむような青白い光がほとばしり、講堂をくまなく照らし出しました。
その場にいた来賓たちは、大拍手
点灯時間はわずか10分という短さ。
それでも「不夜城に遊ぶ思い」と驚嘆の声をあげたといいます。
これが、日本で電灯が公の場ではじめて点灯された瞬間でした。

翌年の1879年10月21日には、米国でエジソンが白熱電球を発明し、
日本にも輸入されました。
明治19年(1886年)には東京に電灯会社が生まれ、
電灯に動力にと、電気の時代が幕を開けました。

その後1882(明治15)年11月1日には、
銀座2丁目の大倉組(現・大倉本館)の店先に2000燭光のアーク灯がともされた。
これは東京電燈会社が行なった電灯の公開実物宣伝で、
警視総監や府知事なども招待された大々的なイベントだった。

なにしろ以前のように室内で、しかもわずか10分の点灯でも大騒ぎした当時の人びとのこと。
この日は屋外で、しかもこれだけの数のアーク灯がともるとなれば、
これはもう騒ぎにならないはずがない。

店のまわりには電灯をひと目見ようという東京市民が大勢押し寄せ、
まるで通勤ラッシュ並みの混雑ぶりだったという。

その中で、ともされたアーク灯の明るさは、とにかく目を見張るばかり。
見物人から「世界で1番明るいのはお太陽さま、その次はお月さま、3番目はこのアーク灯」
といわれるほどだった。
当時の人びとにとってアーク灯は、まさに文明開化の光だったのだ。

そんなアーク灯も、屋内使用に適さないといった欠点から、
白熱灯の普及とともにしだいに姿を消す。

だが、1986(昭和6)年に復元されて、当時と同じ銀座2丁目にポツンと一本だけ立っている。
派手なイルミネーションの中では目立たないが、今も水銀灯以上の明るさは健在。
さすがに昔の人を驚かせただけのことはある。

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