[徳川名参謀]3家光→松平信綱

徳川名参謀シリーズ
3代家光も合わせて読んでね
三代家光は男好き

家光の名参謀っていっぱいいすぎて迷うところですが
本では松平信綱(まつだいらのぶつな)となっています。

松平信綱
元々、信綱は大河内の姓。
将軍に会うことも出来ない。

松平正綱。
松平の中でもかなり格下で
真面目が取り柄で家康死後、ようやくギリギリ大名になった人物。
信綱のお父さん久綱の弟で、松平家の養子に入ったので
姓は大河内から松平に変わっている。

まだ少年だった信綱。
そこへ行って、
松平姓が欲しいです。
将軍家に奉公したいんです。
養子にしていただけませんか。

その心意気、天晴れ。
と、その場で即決定。
でも、もう一回久綱兄さんにちゃんと話してからにしてね

いくつの話だと思います?
6歳ですよ、6歳。

親、久綱やお母さんはどんな気持ちだったろうか。

少年信綱
8歳の時、家光が産まれる
信綱はお世話をする役に任命される。

秀忠が少年信綱に刀を預け、大奥に
信綱は、待ちくたびれて、居眠りしちゃった。
戻って来た秀忠は、それを見て、起こすほどもないと
そっと、刀を取っていこうとした。
すると目が覚めきっていない信綱
「やるまじき!」と抵抗。
秀忠も偉いよね。
叱るどころか、その忠義心に
「その心を一生忘れるでないぞ」

雀が巣を作っていた。
その中にひなが。
家光が
見たいなぁ
信綱は、はしごをかけて取ろうとしたんだけど
足を踏み外す。
ガラガラガッシャーン。
驚いた秀忠が飛び出してきた。
誰じゃ、誰に言われた。
私が雀の巣を欲しかっただけでございます。
何度聞いても同じ答しかしないのに業を煮やし
袋に閉じ込めちゃう。
お江はこっそりとご飯をあげる。
根負けした秀忠は、明くる日無罪放免にするんだけど
その時
竹千代(後の家光)はこの上ない宝を手に入れたな、と

老中、酒井忠世たちと会席中の出来事。
将軍がお呼びと聞いた信綱は
大慌てで出ようとしてお膳をひっくり返しちゃう。
養父正綱に
ご老中に失礼であろう。
誰が近くにいようと、お召しとあれば、常に早く御前に出たいと急いでいます。

一直線!

老中
家光は約30年、将軍の座につくけど最初の約10年は先代秀忠が存命で
いわゆる院制に近い状態だった。
秀忠が亡くなって、
ようし、やりたいようにやるぞっ

松平信綱は、そのために30代の若さで老中に大抜擢された。
なんてったって、産まれたときから世話してくれている
8歳年上のお兄ちゃんみたい。
気心が知れているどころではない。
秀忠時代の古株老中たちは、実際に実力派揃いだったので
その中に入るのは、まあ大変。

酒井忠世、酒井忠勝、土井利勝。

島原の乱
数々の功績の中でも、どーんとその名をとどろかせたのが島原の乱制圧。
最初に派遣された人達が戦死したり、重傷を負ったり。
仕方なく自ら総大将として出向く。
戦なんてしたことないからはたと困るわけだけど
そこは「知恵伊豆」と言われるほどの頭の良さを発揮する。
特に決定的になったのが
オランダ船に攻撃させたこと。
いつかは外国人達が味方についてくれるだろうと思っていたから
ショックは図り知れない。
そのあとバタバタバタッと

川越城の城主となる。
川越と言えば、あの天海ですね。
要所中の要所。
前任もその前も老中。
完全に超エリートコースに乗ったことの証。

平林寺
ウォーキング好きの私としては
信綱と言えば、平林寺。
私の家からそう遠くない、埼玉県は新座にあります。
紅葉が無茶苦茶綺麗な、大きな良いお寺。
ウォーキング同好会としてもウォーキングイベントをやってもらったことがあります。

信綱の墓があるんです。
隣に島原の乱の慰霊碑もあるんですよ。

あれ?
川越じゃないんだ。

信綱の遺言でこっちに移した。
大河内松平家の菩提寺だから。

大河内松平家って養父正綱が松平家に養子に入って作った家
大出世した訳だから
自分で川越に墓作っても全然問題ないと思うんだけど
自分の人生は、正綱が「天晴れ!」って言ってくれたことで成り立ったもの
って事なんでしょうね。

さらに「大河内」って入っていることに
何だかほろっと来ませんか
親子二代に渡って養子に入ったから松平なんだけど
大河内って姓を何らかの形で残したかった、その正綱の気持ちと
その気持ちを汲み取った信綱の気持ちが
墓に現れている気がしてね

そして久綱
可愛い盛りの6歳で子供を手放し
結果大成功したかもしれないけど
親としちゃあ
へいへいぼんぼんで良いから
一緒に暮らしたかったんじゃないかな

久綱の墓ではないにしても
大河内って一部ついている墓に入ってくれたら

おかえり

[昭和歌謡]5 見上げてごらん夜の星を

昭和ヒット曲全147曲の真実、シリーズです。

見上げてごらん夜の星を
坂本九
作詞 永六輔 作曲 いずみたく
1963年

待ってました!永六輔先生。

♪見上げてごらん夜の星を
小さな星の小さな光が
ささやかな幸せをうたってる

言わずと知れた名曲中の名曲
東北大震災の時も随分歌われましたね

いきさつ
この曲は、1960年に上演された
働きながら定時制の高校に通う青年を描いたミュージカルの主題歌。
その主役に抜擢されたのが坂本九
九ちゃんでした。

当時の労働組合や勤労者がお金を出し合って作った
その後、松竹で映画化されて、九ちゃんはスターへの階段を上っていきます。

永さん
何だかんだで結構思い出す事が多いです。
永さんの声が聞けないというのが
まだダメですね。
思い出す度に、やっぱりダメだと思っちゃう。

永さんの話題はこのブログでも何度かしましたよね。
本当に好きだった。

九ちゃん
そして九ちゃん。
川崎でウォーキングしたときも歌碑があってみんなで歌った
九ちゃんはみんなに愛されていた。
あんなに庶民的で愛されたスターはいなかったんじゃないかな。
顔がなんとも良かったですよね
ゴツゴツで、とても二枚目とは言いがたかった。

そしてあの日ですね
御巣鷹山墜落事故
信じられない。
こんな事があり得るのか

43歳
夜の星に
なってほしくなかった。

そしてそして
本では、1曲ずつなんでここまでだけど
やっぱりこれは外せない。
スキヤキ
世界でヒットだもんね。

上を向いて歩こう

作詞 永 六輔  作曲 中村 八大  

♪上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
思いだす 春の日
一人ぼっちの夜

上を向いて 歩こう
にじんだ 星をかぞえて
思いだす 夏の日
一人ぼっちの夜

幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぼっちの夜

パッとしなかった福沢諭吉

人生に悩んだら「日本史」に聞こう、シリーズです。

福沢諭吉
福沢諭吉は豊前中津藩の下級武士の次男で生まれました。

中津藩は10万石の小藩で
幕末の激動で特段パッとした働きをするわけでもありません。

もし諭吉が、薩摩や長州に生まれていたら
どんなにも

ん?
そうだろうか


人生に悩んだら「日本史」に聞こう、という本は
面白い視点の歴史書です。
人生で迷いが生じたときに
過去の人達にてらして、
こんな考え方、こんな生き方も良いんじゃないか、って
一緒に考えてくれる本。

本では、この環境こそが諭吉に合っていたんじゃないかと言います。

薩摩や長州に生まれていたら
あれだけ優秀な諭吉のことだから
政治の世界に引っ張り込まれたろう

それは諭吉のやりたい事ではなかった。

中津藩は、パッとはしないかも知れないけど
藩士の教育には熱心だった。

大阪の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾への留学を許可してくれた。
諭吉にはそれで十分だったんでしょうね

そして、その後、咸臨丸(かんりんまる)に乗って
アメリカへ渡って西洋文化にふれることになる。

環境
下級武士というのも良かった。
重要な地位にあれば、体制側に回らないといけない。
そして、次男。
自由に立ち回る事が出来る。

結果として、この環境こそが
民間の立場で、「教育」という道に邁進できるベストだったと言える。

維新後、当然新政府に誘われる。

一緒に新しい日本を作っていかないか。

おそらく、その時、胸を張って堂々と答えたに違いない。

いいえ。
私は、違った道で、新しい日本を作りたいと思います。

維新前に江戸で開いた蘭学塾。
慶應義塾大学へと発展させていく。

自分にとって
こんな風に思う。

ひとと比較するから、環境って、ときに不幸なものに映る

環境ってどうしようもないものがどーんとあって
その中に自分が置かれている?
そうだろうか。

環境の中で常に自分は呼吸している。
吸って、吐いて、吸って、吐いて

自分だって環境だって
少しずつ少しずつ、
お互いに馴染めるように変化していくに違いない。
時にはチョイスして環境を入れ替えることだって出来る。

長い目でみたら
環境は自分にとってベストなもの

天は人の上に人を人を作らず

比較さえしなければ
環境はベストフレンド。

最近
最近、会社や職場で色々あった。
息詰まった。

環境との呼吸がうまくいかなくなった。

随分迷った。
正直、
それ、どうしても我慢できないほどのことなのかと
言われれば

我慢しようと思えば出来る
が答。

それくらいのことは出来る年齢にはなった。

争いたく無かった。
争う人生は嫌だ。
何も良いことが無かった。

とすると
選択肢は二つになった。

我慢してそのまま進むか
環境を入れ替えるか

「良く生きる」という命題があるならば
前者を選ぶべきなんだろう。

後者は、熱血ドラマ風に言うなら
「逃げるのか!」

でも、我慢は、心の中で毎日「争う」ことになった。

彼はこう言った。
でも、間違っている。自己矛盾を起こしているよね。
口に出しては言わないけどね。

良い生き方より
楽しい生き方を選びたい。
もう、先はそれほど長くない。

自分の中に嫌な自分を生み
でも、それを押し殺す。

そんなことが「良く生きる」事なんだとすると
選びたくない。

静かに、その環境にサヨナラすることで
嫌な自分を作らずに済むなら
そちらを選びたい。

このあとの人生
楽しく生きたい。

現場及び会社を変わって1ヵ月弱になりますが
いやあ、こんなに違うかね。
毎日が気分爽快!

[なぞなぞ]昼間は嘘、夜は本当。

世界のなぞなぞシリーズ
クロアチアです

問題
昼間は嘘。
夜は本当。
なーんだ

答は後ろの方でね。

クロアチア
クロアチアってとても若い国だったんですね。
1991年(平成3年)6月25日にユーゴスラビアから独立。

ちゅうことは、平成より若い。
ゆとり世代ですね。
うちの長女と同い年か
他人とは思えませんね。

ユーゴスラビアはもともと「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われるほどバラバラの人たちが集まって、なんとかかんとか1つになっていた。
それにしてもきれいに揃えましたね。

1990年からは混乱状態に陥り
スロベニアが内戦を経て1991年に独立
同じ年に、マケドニアもクロアチアも
長女と同い年のアのつく3兄弟。
ブーフーウーみたいですね。

最初のきっかけは、サッカーの試合。
1990年5月13日に
ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合。
ザグレブって、あの三浦知良も在籍したことがあるチーム。
サポーター同士が衝突し、選手や警官も巻き込んだ大乱闘。

さらに民族間紛争に拡がって、1年後にはもう、そんなことに。

まだまだ続きます。
翌1992年には、ユーゴスラビアから「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立
ユーゴスラビア自体、2003年に「セルビア・モンテネグロ」に生まれ変わり
そこから、2006年に「モンテネグロ」が独立し「セルビア」になった。
そして、そこから「コソボ」が独立した。

もうグッチャグチャ。

頭を整理しましょう
セルビア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
クロアチア
マケドニア
スロベニア
モンテネグロ
コソボ

7つか
7つの国境・・・
一番多いやつと一緒か。

日本はずっとひとつで良かったなあ

と思ったんだけど
よくよく考えると、幕末に、薩摩も北海道の一部も独立を宣言したことはありました。
さらに前で言うと
平将門だって独立宣言したことがある。

でも、結局は、日本列島はまとまっちゃいましたね
 
 
  

 
 
  


この問題
面白い表現をしますよね

じゃあ、昼間に本当とされている「現実」とされているものって
本当に本当?

結局、「夢」だって「現実」だって
自分が頭の中で作り出しているものなんじゃないだろうか

「現実」は五感を通じて得た情報を即時に基にしていて
「夢」はそこにタイムラグがあるだけ

「現実」だって
それが本当なのは
頭の中に描いた本人だけ

一般的な表現で言うなら
フィルターがかかっている
色眼鏡で見ている。

どうせそうなんだったら
常に幸せフィルターをかけつつ
世の中を見た方が良いよねって
それが言いたいんだけどね