[天皇]32 崇峻天皇。天皇暗殺の大事件

天皇シリーズです

物部(もののべ)氏滅亡
用明天皇は、初めての完全なる蘇我氏系の天皇だと言える。
その用明天皇が2年で病死して
蘇我氏と物部氏の対立は決定的なものになります。

真っ二つの全面戦争

最大のテーマは仏教を受け入れるかどうか

蘇我氏側は、蘇我馬子(そがのうまこ)と後の推古天皇と聖徳太子(厩戸皇子)
推古天皇の異母弟、後の崇峻天皇
さらに、推古天皇の旦那さんで前の天皇敏達天皇の子供、彦人大兄と竹田皇子も蘇我氏側

物部氏(物部守屋)側には、中臣勝海もつきました。
穴穂部皇子(欽明天皇の子)と宅部皇子(宣化天皇の子)も物部氏

最初に動いたのは、中臣勝海
蘇我氏側の二人の皇子、彦人大兄と竹田皇子を殺しに行きます。

でも、手間取って、ぐだぐだやっているうちに心変わり

やっぱり、蘇我氏側につきますわ

ところが、彦人大兄の家臣に殺されちゃいます。

ちょっとぉ、そっちに味方するって言いましたやん

あっ、そうでしたか。失礼失礼。

次期天皇決定会議
物部氏が推したのは、穴穂部皇子と宅部皇子
当然話し合いは平行線

後の推古天皇が、蘇我馬子に命令します。

穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ

正式な宣戦布告です。

大戦争は熾烈を極めました。

三人の皇子、聖徳太子(厩戸皇子)、彦人大兄、竹田皇子は前線の部隊長

形勢不利だった聖徳太子は、四天王像を作って
四天王様、もしこの戦いで勝利を納めることが出来たなら
寺院を建てて、四天王様をお祀りすることに致します。
どうぞ、お守り願います。

それを聞いた蘇我馬子
良いなあ、じゃあ僕も

四天王が味方になれば400人力

蘇我氏連合軍が逆転勝利

聖徳太子が四天王寺を
蘇我馬子が飛鳥寺を作ります。

物部氏は滅亡し
この後は、蘇我氏の思うまま

崇峻(すしゅん)天皇
泊瀬部皇子(はつせべのみこ) 587~592年

ということで、もうひとり残っていた弟、蘇我氏側の泊瀬部皇子が天皇となります。
崇峻天皇のお母さんは、馬子の妹です。
親子の継承が原則になるのはもうちょっと後で、この頃は兄弟の方が優先
期間的にはちょっとずつになります。

強敵もいなくなった訳だし
蘇我馬子は、崇峻天皇を介して好きなように出来る
後の推古天皇、聖徳太子、彦人大兄、竹田皇子、全部味方
ようやく平和がやって来る

筈だった。

人間って不思議です。
いくら親戚だろうが
あいつ気に入らんとなれば、とことん嫌になる。

崇峻天皇は天皇になると、わがまま放題の馬子が鼻についてくる

天皇は俺じゃないか

ある時、崇峻天皇に猪が献上された。

首をはねられた猪を見て
いつの日か、私も、気に入らない人間の首を
猪のようにはねたい
とつぶやいた。

誰とは言っていません。

それを聞いていた奥さん。
馬子に告げ口します。

こんなこと言うてましたよ

何だとぉ

馬子は、崇峻天皇を暗殺してしまいます。

これは大事件。
天皇になる前に争って殺し合いは結構ありますが
もうすでに天皇となっている者が殺されるなんて。

眉輪王が親の仇と安閑天皇を殺した時以来です。

恐ろしいですね。怖いですね。

これで、推古天皇の兄弟の世代は全ていなくなりました。

どうなりますか

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[昭和歌謡]94 すきま風

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

すきま風
杉良太郎
作詞 いではく、作曲 遠藤実
1976年

♪人を愛して 人は心ひらき
 傷ついて すきま風 知るだろう

杉良太郎
杉さまーっ

杉良太郎と言えば慈善活動です
56年もの間、続けてきた慈善活動

刑務所の慰問に始まり、実に様々な活動。
ベトナムの孤児の子供達や盲学校の子ども達も支援してきた

孤児の里親だけでも、81人にものぼる

そもそも、15歳の時から行っているので、有名になる前

偽善や売名行為だと言われる事もあるでしょうが、とインタビューされ

ええ、偽善で売名行為ですよ。みなさんもおやりになればいい

グサッときます。

私財を数十億も注ぎ込み、15歳の時から56年かけて
そんな薄っぺらいものの筈がない

インタビューした人は大反省したんじゃないでしょうか

ボランティア
「おやりになればいい」が出来なかったなあ

18kgダイエットをしたあと、仕事一辺倒だった人生の価値観が見事にガラッと変わり
実に色んなことをした
そういう中で、自分にしっくりくるものに集約されていって
それが、このブログであり、ウォーキング同好会

途中でボランティアについてもちょっとだけやったんだけど
続けられなかった。
自分の中で色んな言い訳をつけてね

自分には出来ないから、と言い切ってしまうのもおかしいと思う
いつかは再挑戦したい。

せめて、それまでの間
真剣に取り組んでいる人たちの事を悪く言うことだけはすまい

遠山の金さん
杉良太郎と言えば、遠山の金さん

すきま風は遠山の金さんの主題歌です。

おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって
この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ

ジャジャーン

今、大岡越前シリーズをやっておりますので
通称、遠山金四郎、本名遠山景元(とおやまかげもと)も話しませんとね

二人お馴染みの町奉行ですから、同時期に北町奉行が遠山の金さんで
南町奉行が大岡越前だと思いがちですが
時代は結構違います。

大岡越前は、8代吉宗の、七色(716)の競歩の享保の改革の時、なので西暦で言うと1716年以降
遠山景元は、12代家慶の時。嫌味(183)なテンポの天保の改革の時、西暦で言うと、1830年以降。
100年近く違いますね。

天保の改革は贅沢は敵だという内容
享保の改革も同じではあるけど、反面隅田川の花火をやったりとか、愛情溢れる贅沢禁止

天保の改革をやった水野忠邦は愛情がないのよね

贅沢はやっぱり良くないので、北町奉行の遠山景元も基本路線は賛成

ところが、庶民が楽しみにしている歌舞伎を禁止しようとしたから
これにはくってかかった。

何考えとんねん

結果的に、浅草猿若町への芝居小屋の移転で何とかおさめた。

継続出来るようになった芝居小屋は遠山景元に大感謝

遠山景元をヒーローにしたてあげた遠山の金さんものをしきりに公演します。

刺青に関してはとても微妙
フィクションで全て嘘、とも言えない可能性がある
若いときにやんちゃしていたようで
本当にちょっとした刺青は入れていたかもしれない。

そんなことから、この定番ストーリーが出来上がったのね

あと、江戸検定で出るのが痔の話
景元は長年痔を患っていた
江戸城に登城するとき、町奉行の場合は、馬に乗っていく必要があり、かごはダメ

済みません、馬は無理なんですわ。
何とかかごを許してもらえんでしょうか

幕府に対して許可申請し、OKをもらっています。

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

徳川昭武と最高の時間。の続き

徳川昭武と最高の時間。
の続きです

戸定邸(とじょうてい)
奥の方に行きました。
家族エリアです。
実にいっぱい部屋がある

ほっこりしたのはお母さんの部屋
年老いたお母さんを呼び寄せます。

客間同様、富士山が見える向きで作り
小さいながらも庭も作る
欄間にはお母さんの出身の家紋からのデザイン

親孝行だなあ
ぐっと来ます。

お風呂は湯気がこもらないよう天井が格子状

こんな天井見たことない

元の客間に戻ってきて

言い忘れてました。
これ見てください。一本杉なんです

うおおおっ

決して華美ではないんだけど、こういうところに金をかけるのが
日本の大邸宅ですよね

言われないと分かりませんもんね
職人の誇りと生きざまですね

ここの欄間を見てください
葵が2枚

そしてこちらの釘隠しは4枚

うわあっ
これは

昭武は並外れて優秀だった
そして倒れた幕府の親玉の弟
反政府勢力が昭武を担ぐととても危ない
新政府はとても大切に扱った

こんな大邸宅
普通に考えて絶対無理です。

首をとられてしかるべきですからね

そんな話は一切出なかったんです。

それに対する感謝の気持ちがこれなんですね
客間だからおもてなしが必要
葵は使おう
でも、三つ葉葵は使いませんよ
それが、生かされている自分の礼儀だ、って事ですね

ありがとうございます。
本当に楽しかった。
楽しかったです。

戸定歴史館
パリ万博の時の資料を中心としながら
昭武とその一行の事が詳しく。
そしてその後の、慶喜と昭武と渋沢栄一の交流
そしてフランスの将軍との再開

でも、残念。
写真NGだったんですよね。

パリ万博の時の日記とかもあったんですが
みなさんのビックリするほど字がきれいでした。

ひとつ、新たな発見が、山高信離(やまたかのぶあきら)という人の存在
パリ万博一行の、実質的総責任者であり、昭武の教育係のトップ

そういう人の存在は知っていたんだけど
すぐに、やってられるかいみたいなことで帰国し
その後の実質的な責任者が渋沢栄一なんだと思っていた。

違っていました。

帰国しちゃったのは、水戸藩から随行した人たち
フランス側の教育係と喧嘩をして
教育係を解任されちゃうんだけど
ちゃんと最後までいたし
とても優秀だった。

少なくとも、歴史館のイチオシは、渋沢栄一じゃなくて山高信離
渋沢栄一の小説を読むとどうしても渋沢栄一メインで描くけど
もうひとりとても優秀な人がいたんですね

明治になって、渋沢栄一もそうだけど
幕府の人間でありながら
新政府に重用された

パリ万博の経験を買われ
日本の関わる博覧会は長きに渡って、ずっと山高が総責任者

カフェ甲冑(かっちゅう)
敷地内に松雲亭というカフェがあるんだけど
松戸手作り甲冑愛好会がこの場所をイベントとして借りたということでしょうか
カフェ甲冑というのぼり

愛好会のメンバーが一生懸命呼び込みをしているので
コーヒーにクッキーが付いて500円とちょっと高めではありましたが
入ってみましょう。

厚紙で作った甲冑がいっぱい展示してあります。

隣にいたカップル
かぶとを被ってみて良いですか

良いですよ

彼がかぶとを被り、
彼女が写真をパチリ

かっこいいよ

そうかなあ

はいはい

その流れで
私にも
被ってみます?

えっ良いんですか

写真も撮ってくれました

作り方も丁寧に教えてくれました。

手先が器用だとか、美術的センスだとか
そんなものは何も要りません
ただただ根気です。

こりゃ、500円は安かったね

庭もとても広かったし高台なので、眺めも良かった



浅間神社
戸定邸をあとにし、浅間神社

えっ
こ、これは

確かに先程の戸定邸といい、起伏の激しい土地ではありますが
いきなり、どーんと山
奇跡の地形ではないでしょうか

浅間神社ですから富士山がらみ
よく富士塚とかで人工の山を作ることはありますが
ここは、おそらく自然の山がたまたまここに
というか、たまたまあった山を丸々利用して浅間神社にしちゃった

二合目、三合目の杭が楽しい


鈴の音色がそれぞれ違っていて面白かった。

最後、松戸公園を経て、戻りました



おでかけマップ

徳川昭武と最高の時間。

即位礼パレードの割り込みを入れちゃいましたが
松戸で、徳川慶喜気分
の続きです。

戸定邸(とじょうてい)
入口です

お腹が空いていたんだけど
ネットでガイドさんが案内していただけると書いてあったので
まずはその時間を確認してから食事に行こうと受付まで。

すみません
ガイドをお願いできるっていうのを見てきたんですけど

はい、大丈夫ですよ

時間は何時からになりますでしょうか

時間とかじゃなく、ガイドさんが空いていればすぐにでも良いんですが
おそらくお昼の食事が終わったと思いますので確認してみますね

一人だけで申し訳ありませんね
夢のマンツーマン。質問し放題。

よろしくお願いします。

昭武は大好きなんです
慶喜ファンで、渋谷栄一ファンですから
必然的に昭武は好きになります。

それでは徳川昭武の事は良くご存じですね

いえいえ、色々教えてください。

いくつか説明があったあとで

今日はお時間は大丈夫ですか

出ました。最高の時間が保証されるフレーズ

ウォーキングで色んなところへ行って
色んなものを見ましたが
自分の中でも歴史に残る良い時間だったなあ、というのは
何を見れたかじゃない。
誰と話せたか

それぞれの場所に、そのテーマが好きで好きで仕方ないって人がいる
実に嬉しそうにしゃべってくれる
こっちも幸せになる
元はガイド本を見るけれど、歩いてみなきゃ絶対に分からない出会い
その出会いを求めてウォーキングしてます。

そんな最高の時間に共通したフレーズ
「今日はお時間は大丈夫ですか」

いっぱい喋りたいんですけど、お付き合いいただけますか
という意思表示
逆に聞く側のこっちとしては
このフレーズを引き出せれば、その日は満点

いつもこう答えています。
「なんぼでも大丈夫です」

さあ、このあと会話スタイルで説明していきますが
その前に戸定邸の主、徳川昭武(あきたけ)って誰かを整理しておきましょう。

徳川昭武(あきたけ)
徳川最後の15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)の弟です。
強烈な個性、第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の十八男として産まれます。
慶喜もそうですが、長男ではありませんから、水戸藩を継ぐことはない
どこかに養子に出されます。

斉昭は野心家なので、天下をとってやる、くらいのことを考えている。
息子のうち、一番優秀な慶喜を御三卿の一橋家に養子に出した。
御三卿は、次期将軍になるための家。
結果として、思い通り将軍にすることができたのですが
慶喜は、一番仲の良かった弟、昭武を自分の次の将軍にと考えた。

そこで、昭武を御三卿のうちのひとつ、清水家に養子に出すよう画策します。
実はここは、ガイドのおじさんから聞いたんですがね

えっ、そうなんですか
仲が良いって事までは知っていたんですが
清水家に養子に出たのは慶喜が画策したんですね

あと、渋沢栄一との関係も言っておきましょう。

渋沢栄一は農民だったのにあそこまでの大活躍したのには、大きな転機があったんです。
ヨーロッパ各地の歴訪です。
その始まりは、フランス政府に呼ばれたパリ万博
その時の団長が昭武
縁あって、徳川慶喜の家臣となっていた渋沢栄一は、そのメンバーとして抜擢され
各国を回るなかで、日本に本当に必要な事に気づきます。

再度会話に戻りましょう。

このお庭、芝生が敷いてありますね
西洋式の庭園は昭武が外国で見てきたものだと思われます。

日本庭園に芝生って本当に合いますよね。

このお庭
だいぶ形が変わってしまっていたものを復元しました。
昭武や慶喜がこの庭の写真もいっぱい残してくれていて
そのまま再現出来たんです。

ここだけ、木の間隔が広めです。
富士山を見るためです。

えっ、今も見えるんですか
はい、ビルが出来る前はきれいに
今はちょうどあの高層ビルに隠れて半分だけ

今の建物が「表」と言って、お客様をおもてなしするための場所
このあとご案内するのが、家族のための「奥」
通常、日本のお屋敷ではこの区別は厳格で、表に自分や家族の部屋は作っちゃいけないんですが
外国帰りの昭武は、表の中に自分の部屋を作っちゃった

先程のお客様用の大広間同様、ここからが富士山が一番良く見えるから

昭武は語学とかも達者だったんでしょうか

フランス語はペラペラだったようです。
留学期間中、かなりスパルタで教育されたようで
日記も全てフランス語で書いています。

えええっ

(何がすごいって、幕府崩壊という激動の時代に、
京都に上洛し天狗党の乱の制圧
清水家の当主となる
日本を代表して、パリ万博出展の団長となる
帰ってきて水戸藩主となる
全て、子供だったということ
パリ万博の時は、13歳です。
スーパーキッズです

薩長にイギリスがついていたので
幕府としてはフランスの強力なバックアップが必要
パリ万博の成功は、幕府として極めて重要な課題
将軍の弟自らが一行を引き連れてという体裁が必要だった。)

いやあ、私は、パリ万博で体裁として「将軍の弟」が必要なので
子供だけど、お飾りとしての昭武で
実際には、渋沢栄一が取り仕切っていたんだとばかり思っていました。

そういうことじゃなく
小さい頃からその優秀さが広く知られていたようですよ。

奥の方に行きました。
部屋がいっぱい

というところで、長くなりましたので
またまた一旦区切りましょう。
続きはまた明日。

おでかけマップ