徳川昭武と最高の時間。

即位礼パレードの割り込みを入れちゃいましたが
松戸で、徳川慶喜気分
の続きです。

戸定邸(とじょうてい)
入口です

お腹が空いていたんだけど
ネットでガイドさんが案内していただけると書いてあったので
まずはその時間を確認してから食事に行こうと受付まで。

すみません
ガイドをお願いできるっていうのを見てきたんですけど

はい、大丈夫ですよ

時間は何時からになりますでしょうか

時間とかじゃなく、ガイドさんが空いていればすぐにでも良いんですが
おそらくお昼の食事が終わったと思いますので確認してみますね

一人だけで申し訳ありませんね
夢のマンツーマン。質問し放題。

よろしくお願いします。

昭武は大好きなんです
慶喜ファンで、渋谷栄一ファンですから
必然的に昭武は好きになります。

それでは徳川昭武の事は良くご存じですね

いえいえ、色々教えてください。

いくつか説明があったあとで

今日はお時間は大丈夫ですか

出ました。最高の時間が保証されるフレーズ

ウォーキングで色んなところへ行って
色んなものを見ましたが
自分の中でも歴史に残る良い時間だったなあ、というのは
何を見れたかじゃない。
誰と話せたか

それぞれの場所に、そのテーマが好きで好きで仕方ないって人がいる
実に嬉しそうにしゃべってくれる
こっちも幸せになる
元はガイド本を見るけれど、歩いてみなきゃ絶対に分からない出会い
その出会いを求めてウォーキングしてます。

そんな最高の時間に共通したフレーズ
「今日はお時間は大丈夫ですか」

いっぱい喋りたいんですけど、お付き合いいただけますか
という意思表示
逆に聞く側のこっちとしては
このフレーズを引き出せれば、その日は満点

いつもこう答えています。
「なんぼでも大丈夫です」

さあ、このあと会話スタイルで説明していきますが
その前に戸定邸の主、徳川昭武(あきたけ)って誰かを整理しておきましょう。

徳川昭武(あきたけ)
徳川最後の15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)の弟です。
強烈な個性、第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の十八男として産まれます。
慶喜もそうですが、長男ではありませんから、水戸藩を継ぐことはない
どこかに養子に出されます。

斉昭は野心家なので、天下をとってやる、くらいのことを考えている。
息子のうち、一番優秀な慶喜を御三卿の一橋家に養子に出した。
御三卿は、次期将軍になるための家。
結果として、思い通り将軍にすることができたのですが
慶喜は、一番仲の良かった弟、昭武を自分の次の将軍にと考えた。

そこで、昭武を御三卿のうちのひとつ、清水家に養子に出すよう画策します。
実はここは、ガイドのおじさんから聞いたんですがね

えっ、そうなんですか
仲が良いって事までは知っていたんですが
清水家に養子に出たのは慶喜が画策したんですね

あと、渋沢栄一との関係も言っておきましょう。

渋沢栄一は農民だったのにあそこまでの大活躍したのには、大きな転機があったんです。
ヨーロッパ各地の歴訪です。
その始まりは、フランス政府に呼ばれたパリ万博
その時の団長が昭武
縁あって、徳川慶喜の家臣となっていた渋沢栄一は、そのメンバーとして抜擢され
各国を回るなかで、日本に本当に必要な事に気づきます。

再度会話に戻りましょう。

このお庭、芝生が敷いてありますね
西洋式の庭園は昭武が外国で見てきたものだと思われます。

日本庭園に芝生って本当に合いますよね。

このお庭
だいぶ形が変わってしまっていたものを復元しました。
昭武や慶喜がこの庭の写真もいっぱい残してくれていて
そのまま再現出来たんです。

ここだけ、木の間隔が広めです。
富士山を見るためです。

えっ、今も見えるんですか
はい、ビルが出来る前はきれいに
今はちょうどあの高層ビルに隠れて半分だけ

今の建物が「表」と言って、お客様をおもてなしするための場所
このあとご案内するのが、家族のための「奥」
通常、日本のお屋敷ではこの区別は厳格で、表に自分や家族の部屋は作っちゃいけないんですが
外国帰りの昭武は、表の中に自分の部屋を作っちゃった

先程のお客様用の大広間同様、ここからが富士山が一番良く見えるから

昭武は語学とかも達者だったんでしょうか

フランス語はペラペラだったようです。
留学期間中、かなりスパルタで教育されたようで
日記も全てフランス語で書いています。

えええっ

(何がすごいって、幕府崩壊という激動の時代に、
京都に上洛し天狗党の乱の制圧
清水家の当主となる
日本を代表して、パリ万博出展の団長となる
帰ってきて水戸藩主となる
全て、子供だったということ
パリ万博の時は、13歳です。
スーパーキッズです

薩長にイギリスがついていたので
幕府としてはフランスの強力なバックアップが必要
パリ万博の成功は、幕府として極めて重要な課題
将軍の弟自らが一行を引き連れてという体裁が必要だった。)

いやあ、私は、パリ万博で体裁として「将軍の弟」が必要なので
子供だけど、お飾りとしての昭武で
実際には、渋沢栄一が取り仕切っていたんだとばかり思っていました。

そういうことじゃなく
小さい頃からその優秀さが広く知られていたようですよ。

奥の方に行きました。
部屋がいっぱい

というところで、長くなりましたので
またまた一旦区切りましょう。
続きはまた明日。

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