[天皇]95 花園天皇。二回連続でこっちだよ作戦

花園天皇
持明院統 1308~1318年

時代としては、このあたり

1304年、持明院統の大ボス、後深草上皇が亡くなる
さらに翌年の1305年、大覚寺統の大ボス、亀山上皇も亡くなる

持明院統は伏見上皇、大覚寺統は後宇多上皇によって統率されることになった。

そんな中、後二条天皇が24歳にして死去した。
次は、皇太子だった花園天皇、持明院統です。

花園天皇が即位すると、院政は伏見上皇が執ることになります。
そして、実権を握ったのが、京極為兼

ところが、この伏見上皇と京極為兼が幕府に対して謀反の意思を持っているとの噂が立つ
あわてて伏見上皇は申し開き状を届け、事なきを得たが
京極為兼の方は土佐へと配流になってしまった。

勢いついたのが大覚寺統
同じようなことが何度もありました

新しい大覚寺統の大ボス後宇多は、
もうそろそろこの状況を根本的に変えたいと考えた。

持明院統にケチがついたこの機を利用して
次以降、ずっと大覚寺統だけで繋げていけるようにしたい。

まず、大覚寺統の正統を決めよう。
後二条天皇の系列で繋げていくようにしよう。

亀山上皇の子供、恒明親王一派には渡さないぞと。

後二条天皇の子供は邦良親王。
ここでひとひねり。

花園天皇の皇太子は大覚寺統からなんだけど
邦良親王を指名するのじゃなく、尊治親王。

後二条天皇の弟、後の後醍醐天皇です
後醍醐天皇を間に挟んで、邦良親王をその皇太子にする
二回連続でこっちだよ作戦。

そして、後醍醐天皇に譲位させたあと
自分は院政をそこそこにし
実質的な政治を後醍醐天皇にやらせ
後醍醐天皇-邦良親王二人体制を確立しよう。

この二回連続でこっちだよ作戦を幕府に猛プッシュ

文保の和談(ぶんぽうのわだん)
実際にこの作戦が効を奏したのが、1317年の文保の和談
いいな分かっているな文保の和談です。

歴史検定の勉強をしていて、この文保の和談がとても分かりづらい
本によって全く逆とも取れる表現がされているんです。

古くから、教科書で文保の和談は
持明院統と大覚寺統がお互いじゅんばんこで天皇を出そうと話し合って決めたもの
という表現がされてきたようです。

ウソ言うな、です。

もっと前なら分かります。
亀山天皇と後深草天皇の頃ならば
そんな話し合いがあったなら、現実にその後かわりばんこでしたから

その後、後醍醐天皇の反乱で全て覆され
さらにそのあと、南北朝というもっと大変なことになる少し前

そもそも二回連続作戦が採用されたのに
じゅんばんこではありません。

和談という言葉のイメージから
仲良く話し合ったんだろうと思いがちです

おそらく逆

幕府としては、あまりに両方から、やいのやいの言われるんで
腹を立ててキレちゃった。

うるさいわ
もう、今後一切こっちにぐちゃぐちゃ言って来なさんな
お互いに仲良く話し合って、自分達で決めなさい。

だから「和談」です。
じゃあ、言われた通り仲良く話し合ったかというと極めて怪しい。
どうも、大覚寺統が、幕府がキレたのを良いことに
二回連続を押しきっちゃった。

でも2回連続が本当に実現したのなら
それはそれで良かったかも知れない。
後醍醐天皇は、幕府を倒そうと思わなかったでしょう。

シナリオが崩れた。

肝心の邦良親王が若くして無くなっちゃったんです。

さあ、それがどういう風に倒幕に繋がって行ったのか

次回から天皇シリーズはいよいよ、後醍醐天皇に入っていきます。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

歴史検定2級。受かる気がするんですが

もうすぐ歴史検定2級のテスト。
11/28ですから、あと1週間です。

受験票も届き、証明写真も撮って貼った。
江戸検定の時に、娘にもらった合格鉛筆もまた出番です。
どうしても答えが分からないとき、転がすだけで答えが分かる優れもの。
準備万端です。

受かりたい!
切実に

歴史検定2級のテストを受けようと決めたのが約6ヶ月前。
最初3級からと思ったんだけど、まあ6ヵ月あるしと
2級に格上げ。

ところが、その時はこんなに大変だとは思っていなかった。
江戸検定の時も、すごく大変でしたが
今回は日本史全時代
7年前、ブログやウォーキングを始める前は
日本史に全く興味はなく
大学受験の時も日本史の勉強したのはゼロ時間
室町時代と鎌倉時代がどっちが先か分からなかった、ってところからですので。

今回よーく分かりました。
日本の歴史は長い。
実に色んな事が起きたんだなあ。

歴史検定2級は大学受験レベルだということなので
日本の受験生は、よくもまあこんな難しいことをやっとるなあと
つくづく実感しました。

正直、自分にとってここまで負担になるとは思っていませんでした。
この6ヶ月間、ほとんどこればっかりでした。
あんなに好きだったウォーキングのお出かけも
お出かけらしいお出かけをほとんど出来ていない。

週末のほとんどを歴史検定の勉強に費やした。
受験の時の感覚が甦ります。
ああ、早く受験が終わらないもんか。
受験が終わったら、あれやりたい、これやりたい。

まあ、ウォーキングだけなんですけどね。

勉強のやり方もぶれている余裕がないので
角川の一問一答の1ページ15問程度で173ページを完璧に丸覚え
こんな感じのが173ページね

対する答えはこちら

例えば、この中世の最初のページなら、最初トライしたときは、12個中、11個が不正解。
頑張って覚えて、中世を最後まで行って、元に戻ると、4問不正解まで減る
もう一回、戻って1問不正解
次戻ると全問正解。

でも、他の時代をやって、また中世に戻ってくると、やっぱり忘れている
今度は1回目で6問不正解、2回目で2問不正解、今度は3回目でOK

またまた違う時代をやって戻ってきてを3回やったということを意味しています。

最初は、中世全部で8日間かかったけど
次は3日間、また次は2日間

頑張ってるでしょ。

これだけ頑張ったら、受かると思うんですよね
10月19日の段階で過去問やると63%
60%以上で合格

そこから、2回通しているから。

これで受からないと、どうなのよこのテストって感じすらする

いずれにしても、泣いても笑ってもあと1週間です。

ラストスパートだっ

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史]3 弘法も筆の誤り。えいやあっ

「ことば日本史」から

平安時代に入ってまいります。

弘法も筆の誤り
出ましたっ。弘法大師空海。
歴史検定でもいっぱい出てきます。

書いた本が、風信帖(ふうしんじょう)・文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)・性霊集(しょうりょうしゅう)
覚え方は風疹皮膚は小量

作った、庶民教育を行う機関が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)

そしてなんと言っても三筆
唐様(からよう)という中国風の書の達人。
空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)
覚え方は空海さんがタッチ速っ

和様の方の書の達人は三磧(さんせき)と言います。
小野道風(おののとうふう)、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)
覚え方は豆腐は去り行くなり
小野道風は花札で唯一書かれている人物です。

弘法大師空海は唐にいたとき、両手両足に筆をもち、さらに口にも筆をくわえて、
一気に書を書いて見せたので、「五筆和尚」と呼ばれたとか。

名人の代名詞といってもいいほどの空海でも、うっかり書き間違えることがあった。

空海が、嵯峨天皇の命令によって、 応天門の額の字を書いたときのこと。

見物人がいる中で「應天門」と書き上げ、門の上部に掲げられた。

おおっ、さすがは弘法大師
一同どよめき

でも、なんだか違和感
ザワッ ザワザワッ

一部でざわつきが。

なんと「應」の下の心の部分の点がひとつ足りない。

アチャーやってもうた。

でも、表情変えないのが、弘法大師のすごいところ

筆に墨をふくませる。
額に向けてえいやぁっ、と投げつけた

筆は見事に命中し、「應」の字が完成。

おおおおおっ

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[首相]30 東久邇宮稔彦。初の皇族首相。やってられっか

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏
ようやく太平洋戦争が終わりました。

東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)
憲政史上初めての皇族首相になります

東久邇宮稔彦は久邇宮朝彦親王の第9王子として京都に生まれる
久邇宮朝彦親王は宮家として最も歴史のある伏見宮家出身
稔彦は、幼い頃から、枠にはおさまらない破天荒な性格

本来は世継ぎではないため、皇族ではなく華族になるはず
でも、当時、天皇の娘が嫁ぐ先は皇族じゃなくてはならず
適齢男性がいなかったということで
18歳になった稔彦は、東久邇宮家という新たな皇族を創設する

予定通り、明治天皇の第9皇女、聡子(としこ)さんと結婚する

やんちゃな性格は変わることなく
日本は嫌になったから皇族をやめて外国に行きたいと言い出した。

おいおい、何のために宮家を作ったのよ

みんなに説得され、外国留学はするものの、皇族にはとどまることになった。

フランス生活は、モネ等の文化人と交流を持つ充実したもの
そろそろ帰国せいという要請を断り続け
とうとう6年にも及んだ。
大正天皇崩御にともない、帰国せざるを得なくなった。

状況が悪化していくなかで
挙国一致のため、皇族内閣をという声が上がり
何度か候補に上がっている。

でも、戦争が始まり、敗色が濃厚になると
皇族に責任を負わさせる訳にはいかないという理由で
逆に候補から外れた。

そして敗戦。

俺たちは敗戦なんて認めんぞ、という一部陸軍や、過激な連中が暴発する恐れがあった

もう負けたんなら、責任も何もない
暴発を押さえるため、こんなときこそ皇族内閣
東久邇宮稔彦に組閣の大命が下った。

皇族首相
8月17日午後7時、総理官邸から臨時のラジオ放送が流された。
マイクに向かっていたのは、内閣を組織したばかりの総理大臣・東久邇宮稔彦。
「陛下は、このたびの大戦の収拾にあたって、
『国民の気持ちはわかる、しかし感情に走ってみだりに事態を混乱させてはならぬ』
と諭さとされています。……私は国民が万難に耐え、
陛下の意に沿うべきことを期待します」

東久邇の試みは好感をもって迎えられ、
これにつづく28日の共同記者会見、9月5日の国会での施政方針演説も好評。
国民も軍関係者たちも予想以上にスムーズに敗戦という現実を受け入れていく。

施政方針演説の中では「一億総懺悔」という言葉も口にした。

「国民の皆さんから直接に意見を聴きいて、
政治をやるうえの参考にしたい」と
総理大臣への投書を歓迎する意向を表明し、
国民の目線に立とうという姿勢を示した

多いときで1日に1000通以上の手紙が総理官邸に届けられたという。

さあ、GHQがやって来た。
最初は、マッカーサーの信任も得て順調な滑り出し。

でも、ハイハイと言うことを聞く性格ではなかった。

次第に認識の齟齬があきらかになっていく

やってられっか

わずか54日の内閣だった。

1947年(昭和22)、直宮家じきみやけ(天皇の子女や兄弟の宮家)以外の皇族の
臣籍降下が決まり、東久邇も皇籍を失った。
すると「人生の再勉強」と称して、
新宿の闇市で乾物屋を開いた。
さらに喫茶店、骨董店なども営むが、いずれも成功しなかった。

1950年(昭和25)、戦前から交際のあった宗教家に口説かれ、
宗教団体「ひがしくに教」を開き教祖となったが、
元皇族ということで問題となり、解散。

晩年には、東久邇に無断で籍を入れた女性が旧皇族夫人になりすまし、
詐欺を働くという事件にも巻きこまれた。

1990年(平成2)1月20日、波瀾万丈ばんじょうの人生を歩んだ東久邇は、
生涯の幕を閉じる

102歳。記録的長寿です。

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