[首相]30 東久邇宮稔彦。初の皇族首相。やってられっか

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏
ようやく太平洋戦争が終わりました。

東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)
憲政史上初めての皇族首相になります

東久邇宮稔彦は久邇宮朝彦親王の第9王子として京都に生まれる
久邇宮朝彦親王は宮家として最も歴史のある伏見宮家出身
稔彦は、幼い頃から、枠にはおさまらない破天荒な性格

本来は世継ぎではないため、皇族ではなく華族になるはず
でも、当時、天皇の娘が嫁ぐ先は皇族じゃなくてはならず
適齢男性がいなかったということで
18歳になった稔彦は、東久邇宮家という新たな皇族を創設する

予定通り、明治天皇の第9皇女、聡子(としこ)さんと結婚する

やんちゃな性格は変わることなく
日本は嫌になったから皇族をやめて外国に行きたいと言い出した。

おいおい、何のために宮家を作ったのよ

みんなに説得され、外国留学はするものの、皇族にはとどまることになった。

フランス生活は、モネ等の文化人と交流を持つ充実したもの
そろそろ帰国せいという要請を断り続け
とうとう6年にも及んだ。
大正天皇崩御にともない、帰国せざるを得なくなった。

状況が悪化していくなかで
挙国一致のため、皇族内閣をという声が上がり
何度か候補に上がっている。

でも、戦争が始まり、敗色が濃厚になると
皇族に責任を負わさせる訳にはいかないという理由で
逆に候補から外れた。

そして敗戦。

俺たちは敗戦なんて認めんぞ、という一部陸軍や、過激な連中が暴発する恐れがあった

もう負けたんなら、責任も何もない
暴発を押さえるため、こんなときこそ皇族内閣
東久邇宮稔彦に組閣の大命が下った。

皇族首相
8月17日午後7時、総理官邸から臨時のラジオ放送が流された。
マイクに向かっていたのは、内閣を組織したばかりの総理大臣・東久邇宮稔彦。
「陛下は、このたびの大戦の収拾にあたって、
『国民の気持ちはわかる、しかし感情に走ってみだりに事態を混乱させてはならぬ』
と諭さとされています。……私は国民が万難に耐え、
陛下の意に沿うべきことを期待します」

東久邇の試みは好感をもって迎えられ、
これにつづく28日の共同記者会見、9月5日の国会での施政方針演説も好評。
国民も軍関係者たちも予想以上にスムーズに敗戦という現実を受け入れていく。

施政方針演説の中では「一億総懺悔」という言葉も口にした。

「国民の皆さんから直接に意見を聴きいて、
政治をやるうえの参考にしたい」と
総理大臣への投書を歓迎する意向を表明し、
国民の目線に立とうという姿勢を示した

多いときで1日に1000通以上の手紙が総理官邸に届けられたという。

さあ、GHQがやって来た。
最初は、マッカーサーの信任も得て順調な滑り出し。

でも、ハイハイと言うことを聞く性格ではなかった。

次第に認識の齟齬があきらかになっていく

やってられっか

わずか54日の内閣だった。

1947年(昭和22)、直宮家じきみやけ(天皇の子女や兄弟の宮家)以外の皇族の
臣籍降下が決まり、東久邇も皇籍を失った。
すると「人生の再勉強」と称して、
新宿の闇市で乾物屋を開いた。
さらに喫茶店、骨董店なども営むが、いずれも成功しなかった。

1950年(昭和25)、戦前から交際のあった宗教家に口説かれ、
宗教団体「ひがしくに教」を開き教祖となったが、
元皇族ということで問題となり、解散。

晩年には、東久邇に無断で籍を入れた女性が旧皇族夫人になりすまし、
詐欺を働くという事件にも巻きこまれた。

1990年(平成2)1月20日、波瀾万丈ばんじょうの人生を歩んだ東久邇は、
生涯の幕を閉じる

102歳。記録的長寿です。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です