水耕栽培はどうでしょう

カミさんが新聞で、ある記事を見つけました
こんなんあるよ。やってみたら

なんと、冬場でも部屋の中でサニーレタスとかが、ペットボトルで栽培できるとのこと
面白そうですね、やってみましょう

カミさんはサニーレタスは好きじゃないから、リーフレタスにしてくれとのリクエスト

買って来ました。ベビーリーフ

えっ、リーフレタスって言ったじゃない

リーフレタスは無かったの
サニーレタスとベビーリーフしかなかったから、サニーレタスじゃない方にしたのよ

ベビーリーフって好きじゃないんだけど

うるさいわっ

食器を洗うスポンジの固めの方に切り込みを入れます
その中に、ベビーリーフの種をクイクイっ

1/28

最初、下から根が出るようになるまでは、ペットボトルではなく、トレーに水を入れて並べておきます。

2/2
おっ、芽が出たんじゃない

2/8
なかなか下から根が出なかったのですが
なんとか
よし、ペットボトル
カッターナイフでクリっと切り取り、ひっくり返します

どうだっ

100円ショップで売っている液体活性剤をチューっ

2/11
ふたばはあるんだけどなあ


2/18
ようやく、本葉も出だしました

そして、今日、2/23

新聞には、1ヵ月で15cm~20cmになるって書いてあったんだけどなあ

毎日見てるとちょっとずつ大きくなっていくのがとても楽しい
って、ことで鑑賞用と考えましょう
食べられるようになる気がしません

ベビーリーフのベビーバージョンかな

余った種をそのままにしておくのももったいないので
庭の植木鉢にパラパラ撒いておきました

今日見ると、芽が出ておりました

水耕栽培に追いつけ追い越せかな
勝負だ

ところで、去年庭に作った畑
オクラとバジル以外はほぼ失敗だったけど
始める時期が遅かったかな
今年こそは

2/12
これだけ種を買ってきました

2月からでもOKな、なすとカボチャ
3月からのトマトを
ポットに植えておきました
オクラとキュウリは4月からのお楽しみ

10日ほどたちましたが
何ともなっておりません
左上の緑はおそらく草

まあ、気長に待つことといたしましょう

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日本語には、昔、「た。」も「である」も無かった

日本語には、昔、主語も文も無かった
の続きです

「た。」は過去形か
面白い問いかけですね
そんなの過去形に決まってます
学校で習いました

ただ、言われてみると微妙

ピッチャー振りかぶって第一球を投げました
打った

うーん、過去形?
現在形と言った方が良いような

同じような場面を英語で実況放送する場合は
現在形が使われている

これも昔は無くて、翻訳の中で作られたものだから
明確な形になっていない

江戸時代、蘭学者の中で、オランダ語を訳すとき
過去形や現在完了形を「~た」と訳したことに始まる
ただ、この時でも、「~た」を使うことは少数派
日本語の過去形としては「し」「けり」「たり」を使うのが一般的

「~た」を過去形として一般的になったのは、明治30年代、二葉亭四迷などから始まった
小説文の影響かと思われる

「た」はもとは助動詞「たり」の連体形
(たるなんじゃないかという気もするが)
後ろに何かが続くはずなので、「た」で切れる文はほとんど使われなかった

二葉亭四迷自身も使っておきながら反省していて
どうにもぎくしゃくしていて出来栄えが悪い、と言っている

今、口語ではどうかというと「た」で終わる文は使われない
「たね」「たよ」とか
そう言われればそうです
「た」で終わるってぶっきらぼうで、喧嘩売ってんのかってなります
「分かった」とか言うのは、もういいからこれ以上言うな、って時です

本によると、現在形の「食べる」のような「ル形」と言われるものも
翻訳で作られたらしいのですが
ここは、私自身、うまく理解できなかったので省略

である
「である」も以前の日本語には無くて、翻訳で作られたもの

夏目漱石の「吾輩は猫である」は
それまでの日本語にはない「~は」と「~である」を組み合わせている。
ね、変な日本語でしょ、笑ってやってください、という趣旨

日本語は「空は青い」とか「山は富士」のように
形容詞や名詞もそのままの形で述語になりえる
英語ではあくまでも述語は動詞
形容詞や名詞を述語で表現しようとすればbe動詞を使わなきゃならない
isとかです。懐かしいなあ、学生の時にbe動詞って言ってたなあ

日本語とは順番が違うので日本語の場合はisに当たるものを後ろに持っていって
「である」という言葉を作り出した

翻訳にのみ特有の言葉だったんだけど
明治になって、小学校の国語教科書に「デアリマス」が登場する
「あります」は江戸の遊里に特有な言葉だったんだけど
明治になって、教科書を作るとなったとき、方言を避け「標準語」を作ろうとして
「あります」と「である」から「デアリマス」の表現を使うようになった

教科書に載れば広がってはいきますが
やっぱり違和感ありありなので
吾輩は猫である、は当時今以上にヘンテコ文としてとらえられたんでしょう
それが有名になって、であるは逆に堅苦しい表現としては一般的な表現となっていったのかもしれない

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[迷信]ハーメルンの笛吹き男

「科学で読み解く迷信・言い伝え」から

ハーメルンの笛吹き男
13世紀末のドイツの片田舎の町で、謎めいた事件が起きた。
130人近い子供たちがこつぜんと姿を消した。

ハーメルンの笛吹き男伝説として語り継がれてきた有名な逸話ではあるが、
じつはこの事件の詳細はまったくわかっていない。
後世の学者たちがさまざまな説を唱えてはいるが、
子供たちが姿を消したという事実以外は謎のまま残されている。

それでも科学的にこの事件を解き明かそうとするときに核になるのが、
伝説の中に埋め込まれているネズミの存在だ。
伝説の中身はこう。
ドイツのハーメルンという町に、カラフルなつぎはぎ衣装の「まだら男」がやってきた。
町全体が悩まされていたネズミの群れを退治する仕事を引き受けたそのまだら男は、
笛を吹いてネズミを集め、そのまま川に誘導しておぼれさせた。

ところが、町の人々は契約を破って報酬を出し渋り、
まだら男を町から追い出してしまった。
後日、別の服を着て現れた男が再び笛を吹くと、
今度は町中の子供たちが男の後について歩き出した。
そしてそのまま町の門を出て、山の方に向かって行き、二度と町には戻らなかった。

なぜネズミ退治の男だったのか

当時の社会において、ネズミは多くの災いの原因になる害獣だった。
なかでも伝染病を媒介するという性質からネズミの駆除は重要な問題で、
それをなりわい生業にする専門業者も現れたまだら男は
ネズミの駆除を請け負う専門業者だった可能性が高い。

伝説に含まれるモチーフが意味を持つと考えれば、
まだら男がネズミ駆除業者として描かれていることも、
そもそもの発端がネズミであることも意味があると考えられる。

中世の伝染病で恐れられていたもののひとつが、ペストだろう。

黒死病とも呼ばれたペストは、ネズミを通してノミやシラミに感染し、
そこから人に伝播していくとされている。

ヨーロッパでのパンデミックでは、ヨーロッパの人口の3分の1が亡くなった。

ハーメルンで子供が消えた事件が発生した当時、
ペスト菌の存在はわかっていなかった。
ペスト菌は1894年に北里柴三郎博士らによって発見され、
ネズミなどのげっ歯類に寄生するノミによって媒介されることが判明している。
しかし、伝説や絵の中にネズミがいるという事実からは、
当時の人々の間で「人間が大量に姿を消す出来事にネズミがかかわっている」というコンセンサスが成り立っていたのだろう。

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[足利将軍]6-2 義教。恐怖政治の果てに

[足利将軍]6 義教。くじ引きで選ばれた将軍
の続きです

義教(よしのり)
将軍になってそうそう、正長の一揆というのが起きる
さらに、播磨の土一揆
求心力が低下していく

元々、大名たちに支えられての室町幕府
その中で、政治に無関係だった義教が、何とか地盤を築こうと試行錯誤

前半は、それなりに味方も作り、バランスを保ちつつ進んでいっていたのだが
関東の持氏との戦いあたりから変わってくる
本来、強気なのでバランスを保ちつつ、というのは性に合わない

大名たちに対して、圧倒的に優位に立ちたくて、大名たちの勢力を削ごうとする
大名内での家督争い等に積極的に介入し、内輪揉めの火に油を注ぐ
これが、後の応仁の乱に繋がっていく

さらに「恐怖政治」が始まる
何だかだと因縁をつけ、要職から外したり、殺したり

元々くじ引きでなった将軍
引け目があるなかで、何とか大名たちに溶け込もうとしていたのに
糸が切れちゃったのかも知れない

義教が主導する幕府政治に直接的にもっとも関与できたのは管領細川持之
そして侍所赤松満祐(あかまつみつすけ)

重臣は、管領(かんれい)と呼ばれる副総理的な役割の細川氏を中心とし
畠山、山名、斯波(しば)
次あたりに赤松氏

赤松満祐は侍所という重要な役職についていたので、義教を良く支えた
少なくとも前半は義教の最も頼りになる人物だったと言える

前回お話しした富士旅行の時は、不在の間京都を守るために京都に残る
その少し前、赤松満祐の領地である播磨に旅行し、手厚い饗応を受けている
正直、富士旅行のお供をするには大名の経済的負担は大きく
京都に残る赤松満祐に対しては、同様に経済的負担を負わなければ、他の大名とバランスが取れないということがあったのだろう

その対応もして、義教を支えてきた赤松満祐なのに
義教が満祐ではない赤松氏(赤松貞村等)に近づく動きを見せた

まさか、私にもか
裏切られた

永享13年2月17日、改元定が行われ、「嘉吉」と改元された
改元されて間もない、嘉吉元年6月24日
満祐の子息の赤松教康の屋敷で諸敵平定の賀宴が催されるということで、
室町殿義教は午後二時すぎ、教康のもとを訪れた

御相伴として管領細川持之、畠山持永、山名持豊、細川持常、大内持世、京極高数らの大名が在席した。
余興として猿楽三番が演じられ、盃酌も五献に進んだところで、義教の座席の後障子が開く

覚悟っ

甲冑を着た武者数十人が乱入し、義教を殺害
義教の近習である細川持春・山名熙貴はともに激しく渡り合ったが、持春は負傷し、熙貴は落命

赤松教康は屋敷に火をかけ、義教と熙貴の頸を剣にさして本拠の播磨へと下国
満祐は現場にこそいなかったが、赤松教康にすぐに合流した

家臣が将軍を殺害。嘉吉の乱と呼ばれる前代未聞の大事件
本能寺の変を連想するが
本能寺の変と違うのは、その後の大名たちの動き
当然即刻対応すべき、赤松征討に迅速に動く大名がいなかった

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