夢窓疎石。敵を弔いませんか。

名僧シリーズ

日本庭園でいうと神様みたいな人
そうか、夢窓疎石(むそうそせき)は僧だった

夢窓疎石(むそうそせき)
1275~1351 臨済宗

後醍醐天皇の招きで、鎌倉から上京し、臨川寺、南禅寺等に住します。
後醍醐天皇によほど信頼されていたんですね

足利尊氏や直義に、安国寺、利生塔を進言しています。
安国寺や利生塔については、こちらを見てね
室町時代の仏教

そしてさらに、後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を建立
出ました、天龍寺。

この流れだけ見ても、夢窓疎石の「気持ち」が伝わってきます。

自分は、後醍醐天皇に引き上げられて、一流の僧になることが出来た。

後醍醐天皇は一旦は、足利尊氏等の助けを受けて、建武の新政という成功者になる
この時点では、後醍醐天皇と足利尊氏は同じ方向を向いていた筈。
夢窓疎石も、その同じ方向を向いていたのでしょう。

その後、後醍醐天皇の残念な政治、のため、足利尊氏が反乱を起こして、後醍醐天皇を討つ
後醍醐天皇はしぶとく生き残り、南朝を起こすわけですが、そっちに行くのは難しいですね
足利尊氏につく訳ですが
恩人の後醍醐天皇の事を思い続けていたんでしょうね

足利尊氏にもよほど信頼されていたと思われます。
尊氏にある提案をします。
後醍醐天皇の冥福を祈りませんか

敵ですよ、敵
お互いに殺そうとした相手。
夢窓疎石でないと絶対に言い出せなかったでしょう。

その提案を受け入れ、尊氏は
大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改め
天龍寺を建立します。

芸術
仏教って宗教でありながら、哲学とかの色んな側面を持っていると思いますが
仏教の「芸術」の側面を庭園の観点から大きく発展させたのは、夢窓疎石です。
庭園の神様。

天龍寺の他

苔寺とも呼ばれる西芳寺

枯山水に関して言うと、元々あったもので、夢窓疎石が開発したものではありません
ただ、枯山水を大きく発展させたのは夢窓疎石です。
もともと浄土式の寺院であった西芳寺に呼ばれ、
禅宗寺院として復興していきました。
禅宗寺院の形をつくるため、庭も含めた大きな改革を行います。
その中で、枯山水を禅の修行をする場としてつくりました。

石で表現された大自然と対峙し、見えないもの聴こえないものを感じること
それを、禅の修行と考えたのです。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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